【序論】:医療訴訟におけるパラダイムシフトの正体
現代の医療訴訟において、救命という本質的な結果以上に「手順の完遂」が法的責任の行方を決める傾向が強まっている。この事態は、単なる実務上の変更にとどまらず、わが国の医療提供体制の根幹を揺るがす深刻な地殻変動であると言わざるを得ない。
救急医療とは、本来「完璧な結果」を保証できる世界ではない。限られた時間、限られた情報、そして限られた人員の中で、医師や医療従事者は常に命と向き合い、瞬時の決断を積み重ねている。しかし近年、その現場では「どうすれば命を救えるか」という本質的な問いよりも、「どうすれば責任を問われないか」という形式的な防衛が優先される空気が広がり始めている。
ルールの適用が社会の秩序や人の行動にどのような連鎖反応を引き起こすのか。この歪みが医療という生存のインフラを破壊しつつある今、日本社会そのものが「形式」を過度に重視する方向へ傾いていることに、強い危機感を覚えざるを得ない。
このままでは、最善を尽くそうとする者ほど傷つき、何もしない者ほど守られるという、救いのない社会へと変質していく。静かに忍び寄るその代償を払うのは、最終的には私たち国民一人ひとりなのである。
【事案分析】:救えなかったのは「命」か、それとも「手続き」か
【事案分析】:救えなかったのは「命」か、それとも「手続き」か
医療界に衝撃を与え、現場を迷走させるきっかけとなったのが、最高裁平成12年7月7日判決である。
事案の概要はこうだ。頭部打撲で搬送された患者に対し、医師は診察の結果、容態は安定していると判断し、CT検査を行わず帰宅させた。しかし患者は翌朝、急性硬膜外血腫で死亡した。後の医学的検証では、仮にCT検査を実施し、即座に手術を行っていたとしても、救命可能性は50%以下であったとされる。つまり、過失がなければ確実に助かったという「高度の蓋然性(因果関係)」が成立しない事案であった。
このため、地方裁判所および高等裁判所の下級審審理では、「仮に適切な検査・手術を行っていても救命できたとは言えない」として、医師の過失と死亡との因果関係を否定し、医師側の賠償責任を認めなかった。
ところが最高裁は、ここで新たな法的利益を前面に押し出した。それが、のちの「医療水準にかなった適切かつ真摯な医療を受ける期待権」の源流となる、「生存の相当程度の可能性(生存利益)」である。
最高裁は、死亡そのものに対する巨額の賠償(因果関係)こそ認めなかったものの、「適切な医療が行われていたならば、なお生存していたかもしれない『相当程度の可能性』それ自体が法的に保護されるべき利益であり、医師の過失によってこれを侵害した」と判断。下級審の判断を覆し、プロセスにおける責任として独自の慰謝料支払いを命じたのである。
結果、医療業界としては、患者の期待権だけでも権利侵害になる場合があると委縮効果が広がってしまったのです(その後、現実として、「医療水準にかなった適切かつ真摯な医療を受ける期待権」そのものの侵害を理由に最高裁H17.12.8や、さらに踏み込んだ形でH23.2.25まで争われた事案もある)。
この判断は、一見すると患者保護を目的とした慈悲深いものに見える。しかし、法、行政、社会常識のすべてをトータルに俯瞰し、社会システム全体の奔流を見据える視点からすれば、この判決が放つメッセージは極めて冷徹な宣告であった。それは、「結果よりも形式を守れ」という、専門家の裁量を否定する形式主義への招待状に他ならない。
【解決の設計】:マニュアルへの逃避が招く「判断力」の死
人間は、罰せられる構造の中では必ず行動を変える。もし司法が「結果(命を救えたか)」ではなく「形式(手順を守ったか)」を罰するならば、現場は当然、「最善」より「無難」を選び始める。ここに、社会全体を蝕む深刻な構造的欠陥がある。
1.判断する専門家ほど、追い詰められる
本来、医師とは「目の前の患者に今何が必要か」を、情報の非対称性(プロと素人の圧倒的な知識差)を超えて総合的に判断する専門家である。しかし今、現場では「念のため全部やる」「マニュアル通りにしておく」「自分で決めない」という空気が強まっている。
「独自の判断」を下すことには責任が伴う。ルールや形式を守ったかどうかばかりが厳しく責任追及される社会において、現場の状況に合わせて臨機応変に手順を省いたり、効率化したりすることはリスクでしかなくなる。結果として、現場から少しずつ「血の通った決断」が消え、医療は無機質な「手続きの代行」へと変質していくのである。
2.防衛医療が、医療資源を静かに圧迫する
本当に必要かどうかに関係なく、過剰な検査、過剰な説明、過剰な記録が繰り返される。これを「丁寧な医療」と呼ぶのは欺瞞(ぎまん)である。社会システム全体で見れば、これは限られた医療資源(時間、人手、機材)の浪費に他ならない。
救急現場において、一分一秒の遅れは命を左右する。「念のため」の手続きが積み重なるほど、本当に緊急性の高い患者への対応が遅れるという現実に、司法は目をつむっている。これは単なる効率論ではない。社会全体の救命能力という「公共の福祉」そのものが、形式的正義によって削り取られているのである。
3.「何もしない」という最大のリスク回避
最も恐ろしいのは、挑戦が責任追及と直結する構造だ。踏み込んだ処置をすれば責任を問われ、手順を外せば攻撃される。一方で、マニュアルをなぞって救えなかった場合は守られる。この構造下で、誰が果敢な救命に挑むだろうか。
「最善を尽くす」より「叩かれない選択をする」という空気は、医療のみならず社会のあらゆる現場にも蔓延し始めている。これは、誰も責任を取らない代わりに、誰も救えないという「責任回避社会」の完成を意味している。
【社会全体の危機】:壊れゆく「使命感」と信頼のインフラ
一人の権利や「形式を尽くしてほしかった」という期待権を絶対化するあまり、私たちはより重大なものを失おうとしている。それこそが、現場を支える医療従事者の「使命感」の崩壊である。
本来、患者と医療機関の関係とは、単なる法律上の契約やサービスの授受ではない。「お互いに対する敬意や感謝の気持ち」「双方の信頼関係」という、人間付き合いの根本によって成り立つものである。しかし、重箱の隅をつつくような形式主義の台頭は、この信頼関係を「不信と防衛」の冷たい関係へと塗り替えてしまう。
社会には「安全や安心はタダで手に入る」「やってくれて当たり前」という感覚が往々にして存在する。しかし、その「当たり前」の裏側には、昼夜を問わず、休日を返上してでも「目の前の命を救いたい」「困っている人を助けたい」と奮い立つ現場の熱い使命感がある。
筆者自身、かつて法執行の最前線に身を置き、37年間にわたり「社会のため、悪い奴を捕まえるため、困っている人を助けるため」に昼夜を問わず走り続けてきた。その際、社会から「そんなことはやって当たり前」「安全はタダだ」という冷たい評価や感覚に触れ、モチベーションがへこみそうになった夜は一度や二度ではない。そのたびに自分を奮い立たせ、現場に踏みとどまらせてくれたのは、他ならぬ「自分は社会のために頑張っているんだ」という強い使命感であった。
この使命感こそが、医療においてもインフラを機能させ、患者を治し、安全を最大限に高めるための「最後の、それをして最大の担保」に他ならない。どれほど高度な設備や完璧なマニュアルがあっても、人間の心が折れてしまえば医療は瞬時に崩壊する。「頑張っても報われない」という失望が現場を覆うとき、社会全体の安心を支える最大のインフラが、内側から確実に壊れていくのである。
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【出口の設計】:組織的ガバナンスという「安心の盾」
この問題を、現場の個人の勇気や精神論に委ねてはならない。必要なのは、構造的なゆがみを補完する「組織的ガバナンス」の確立である。
1.個人の判断を、組織が担保する
現場で下された判断を、「医師個人の自己責任」にしてはならない。組織が判断基準を共有し、法的リスクも含めて背負う体制を作る必要がある。プロによる妥当な判断を、組織が専門的知見で保証することこそが、現場に「決断の勇気」を取り戻す第一歩となる。
2.「記録」は後出しジャンケンを防ぐ最大の武器
重要なのは、結果ではなく「なぜ、その瞬間に、その判断をしたのか」という思考のプロセスを残すことである。現場には、その時にしか見えない現実がある。後から机上で振り返れば、いくらでも理想論は語れるだろう。だからこそ、緻密な記録は、不当な“後出しジャンケン”による責任追及から現場を守る「安心の盾」となるのである。
3.社会全体で「信託」の文化を再構築する
社会は本来、プロの判断を信じて託すという“信託”によって成り立っている。チェックは必要だが、不信を前提に制度を作り続ければ、最後に壊れるのは現場の使命感である。私たちは、専門家の知見を尊重し、社会全体の幸福のために「正しい判断を正しく守る」という当たり前の秩序を取り戻さなければならない。
【結びに代えて】
今、日本社会は大きな分岐点に立っている。形式を完璧に守ることだけを求め続ければ、現場から判断力は消え、挑戦は消え、そして最後に「誰も救えない社会」が訪れるだろう。私たちが本当に守るべきものは、無機質な「形式」なのか。それとも、泥臭くても必死に命を繋ごうとする現場の「意志」と「判断」なのか。
筆者はこれまで、福岡県警察における警察署長としての現場指揮に加え、財務省や国税庁への出向など、国家の基盤を支える様々な実務を経験してきた。現在はその37年間のキャリアを活かし、福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーや看護専門学校の講師を務めながら、「柴田ガバナンス研究所」の代表として医療安全の現場をサポートしている。
当研究所が提唱する「組織ガバナンス設計」は、単なる机上の法律論ではない。多角的な視点から「過度なプレッシャーにさらされた現場をどう守り、どう動かすか」という、徹底した実効性に他者との違いがある。現場が誇りと使命感を取り戻し、不当な要求や行き過ぎた形式主義から守られるための「安心の盾」を、これからも組織の設計士として社会に提示し続けていきたい。
【事案分析と解決の設計士:柴田建一(シバケン)】
37年間の法執行経験と、現在の医療安全・組織ガバナンス支援の知見を融合し、「現場が動ける組織づくり」を支援しています。医療機関・企業・組織運営における判断停止、責任回避、不当要求対応など、“出口が見えない問題”に対し、構造的な視点から具体的な設計図をご提案しています。
【お問い合わせ・ご相談窓口】 柴田ガバナンス研究所 代表:柴田 建一(シバケン)
