はじめに:現場をフリーズさせる「悪魔のフレーズ」
医療現場の最前線で、職員を最も困惑させ、精神的に追い詰める言葉があります。 それが、「前はやってくれた」「昨日の看護師はいいと言った」「他の病院では当たり前だ」という、過去の事例や他者の言動を引き合いに出す不当な要求です。
これらの言葉を突きつけられた瞬間、受付や看護師の動きはピタリと止まってしまいます。真面目な職員ほど、「えっ、誰がそんなことを言ったんだろう?」「もし本当に言っていたら、自分が断るのは失礼ではないか?」と事実確認に走ろうとします。しかし、それこそがハラスメント加害者の巧妙な「罠」なのです。彼らは現場の職員が持つ「真面目さ」や「確認のために動く性質」を完全に計算に入れた上で、このフレーズを揺さぶりの道具として使っています。
かつて法執行の最前線で数多くの事案に対峙し、人間の複雑な心理や言葉の真偽を見極めてきた経験から言わせてもらえば、こうした要求のすべてに真正面から付き合っていては現場が疲弊するだけです。今回は、この「前例・他者引用」という不当要求を、その場で断ち切り、二度と繰り返させないための事案分析と解決へのアプローチを解説します。
なぜ「事実関係のために先送り」してはいけないのか
一般的なマニュアルでは、「まずは事実関係を調査し、後ほど回答します」と教えることが多いでしょう。しかし、ハラスメント対策において、この「先送り(事案の継続)」は原則として「悪手」です。理由は3つあります。
第一に、ハラスメント継続の機会を相手に与えてしまう点です。「調べてから答えます」と言った瞬間、その場は収まるかもしれませんが、相手には「次もまた話せる口実」を与えてしまいます。加害者にとって、病院側を振り回している時間は成功体験であり、支配感を得る時間です。調査期間中、相手の攻撃性はさらに高まります。
第二に、職員を疑心暗鬼にさせる点です。「誰が言ったのか」を血眼になって探す行為は、組織内に「誰かがミスをした犯人探し」の空気を作ります。これが職員同士の不信感を生み、組織的防御を内側から崩壊させます。
第三に、そもそもその発言が嘘や歪曲である可能性が高いという点です。不当要求を通そうとする者は、自分に都合のいいように事実をねじ曲げます。「検討します」と言われたのを「いいと言われた」に変換し、「今回だけですよ」という厚意を「当然の権利」に変換します。あるいは、全くのデタラメを突きつけることもあります。これらに対し、真面目に事実確認をしようとすること自体が、相手の土俵に乗っている証拠なのです。
ここで重要なのは、この先送り厳禁という鉄則は、あくまで悪意を持ったハラスメント患者に対する防犯上の正解であり、基本であるということです。一方で、私たちが本当に守るべき一般の患者さんに対しては、どこまでも丁寧で誠実な対応、不安な気持ちに寄り添うアプローチが医療の本質であり基本となります。
目の前の事象が、正当な不満や不安の表明なのか、それとも理不尽なハラスメント行為なのか。その境界線を的確に見極めることこそが、まさに現場に求められる「危機察知能力」です。この能力を平素から磨き、見極めの目を持つことこそが、組織防御の第一歩となるのです。
その場で解決する「今・ここ・方針」の原則
では、前例や他者の言動を持ち出されたとき、どう対応すべきか。結論は一つです。 「過去がどうあれ、誰が何を言ったとしても、今、この場での方針はこれです」 という、今に焦点を当てた毅然とした対応です。ここでのポイントは、以下の2つのステップを同時に行うことです。
ステップA:事実関係の切り離し(限定的謝罪と否定) 相手が「誰々がいいと言った」と主張してきたら、こう返します。 「もし、私どもの職員が不注意にもそのように申し上げたのであれば、それは当院の方針として誤りです。不適切なご案内をしたことについては、この場でお詫びし、私から厳しく指導しておきす。しかし、今現在の正解はこちらです。」 これこそが、限定的謝罪の応用です。不適切な案内をしたかもしれないという過去の可能性は謝りますが、要求を通すことという現在の判断は断固拒否します。これにより、相手の武器をその瞬間に無力化します。
ステップB:権限の明示(組織的対応の宣言) 「誰がいいと言おうと、今、この場所での責任者は私です。そして、病院としての方針をお伝えしているのも私です」という姿勢を示します。「誰々が間違っています。以前が間違っていました。ですから、今はこれが正しいのです」と明確に言い切ることで、議論を過去から現在へ引き戻します。
情報共有と組織的対応の真の目的
この対応は、単に目の前の相手を黙らせるためのものではありません。情報共有と組織的防御という2つの重要な意味が重なっています。
まずは、隙を作らせない情報共有です。「あの先生はいいと言ったのに、この看護師はダメと言う」という隙を与えないためには、日頃から何がダメかの基準を組織で統一し、共有しておく必要があります。もし、本当に不適切な案内をした職員がいたとしても、組織としてそれは間違いだったと即座に修正できれば、組織は揺らぎません。
次に、職員を孤独にしない組織的防御です。「私が言っていることが病院の方針です」と言い切れる背景には、組織のバックアップが不可欠です。「もし間違ったことを言っても、組織がそれは間違いだと正して守ってくれる」という安心感があるからこそ、現場の職員は毅然とした態度を取ることができます。これこそが、組織一丸となって立ち向かうガバナンスのあり方です。
現場の揺さぶりを無力化する対応要領と具体的アプローチ
ここからは、実際の医療現場や受付窓口での押し問答を想定し、具体的な切り返しのロジックを解説します。
まず、最も頻発する「前はやってくれたぞ!」という過去の特例を持ち出すケースについてです。これに対する正しいアプローチは、過去の例外的な対応そのものを組織として本来あってはならないエラーとしてその場で処理してしまうことです。現場では、以前にそのような対応が一度でもあったのだとすれば、それは私どもの不手際であり、本来あってはならない不適切な対応でございましたとお詫びした上で、現在は一律でこちらの規則に従って適正な運用をさせていただいておりますので、本日そのようにお受けすることはできません、と伝えてください。
次に、特定の職員の名前を挙げて「看護師の〇〇さんはいいって言ったぞ!」と詰め寄られるケースです。この場合も、その場にいない職員の真意を後から確かめようと調査を約束してはいけません。名指しされた職員の尊厳を背後から守りつつ、その発言自体を組織の権限で即座に上書きします。〇〇がそのように申し上げたのだとすれば、それは私どもの指導不足であり、〇〇の伝えた内容が完全に間違っておりますと説明し、誤ったご案内をしてしまいましたことについては、私から訂正してお詫びいたしますが、正しくは今私が責任を持って組織の方針としてお伝えしているこちらのルールとなります、と言い切るのです。
また、形勢が悪くなった相手が「お前じゃ話にならない!責任者を出せ!」と激昂し、さらなる上層部を引っ張り出そうとするケースもあります。ここでも安易に上の人間を出してはなりません。現場のスタッフが防波堤となり、自身の権限を明確に示します。恐れ入りますが、今この場でのご対応責任者は私でございますと伝え、私が病院の方針を代表して一貫した結論をお伝えしておりますので、この後どなたが対応いたしましても結論が変わることはございません、ときっぱり主張します。
最後に、引き下がれなくなった相手が「納得いかない!ちゃんと調べてからもう一度連絡してこい!」と、事案を継続させようと先延ばしを狙うケースです。このアプローチでは、時間をかけて調べたところで結論は微塵も揺るがないという現実を、冷徹なまでに突きつける必要があります。これ以上の事実確認やお調べを重ねましたところで、大変恐縮ながらご要望にはお応えできないという病院としての最終的な結論が変わることはございませんと明言し、これ以上お話しを続けても平行線でございますので、誠に勝手ながら本日のご対応はこれで終了とさせていただきます、と話を打ち切るのです。
👉大部屋でのいびきや室温トラブル、理不尽な要求への切り返し方や組織的な対応ステップは、こちらの記事で詳しく解説しています。 【大部屋トラブル】「いびきがうるさい」「部屋が暑い」…入院病棟の理不尽なクレームを解決する毅然とした切り返し術 (https://shibaken-poli.com/2026/06/01/%e3%80%90%e5%a4%a7%e9%83%a8%e5%b1%8b%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%96%e3%83%ab%e3%80%91%e3%80%8c%e3%81%84%e3%81%b3%e3%81%8d%e3%81%8c%e3%81%86%e3%82%8b%e3%81%95%e3%81%84%e3%80%8d%e3%80%8c%e9%83%a8%e5%b1%8b/)
おわりに:不当要求を「その場」で終わらせる勇気
ハラスメント対策の基本は、「後に引かない、先延ばししない、事案を継続させない」ことです。事実関係を調べることは大切ですが、悪意ある不当要求に対してそれを理由に先延ばしにすることは、相手に攻撃のチャンスを与え続けることに他なりません。悪意のある患者なのか、それとも、接遇の基本として、「事実関係を調べて連絡します」なのかはまさに危機察知力を働かせる必要があるのは言うまでもありません。
「過去よりも今」「個人よりも組織の方針」を優先してください。もし、不適切な対応をした職員がいたとしても、それは内側で指導すればいいこと。患者の前で職員を守りながら間違いを正すという毅然とした姿勢こそが、結果として安全安心な医療サービスを維持することに繋がるのです。
「誰が何を言おうと、今、私が言っていることが病院の正解です。」
この言葉を胸に、毅然とした対応で、あなたの大切な職場と職員を守り抜きましょう。
私は過去、警察署長としての危機管理の最前線や、財務省・国税庁への出向といった異なる組織での統治・コンプライアンス業務を経験してまいりました。現在はその経験を活かし、福岡を中心に医療機関皆さまの安全対策や組織防衛、危機管理体制の構築をサポートするアドバイザー、また看護専門学校での講師として、次世代の育成にも携わらせていただいております。さまざまな組織の「内と外」を見てきたからこそ、現場のご苦労に寄り添った、実効性のある解決策を共に導き出せると考えております。
組織の防衛、ペイシェントハラスメント対応のマニュアル策定、あるいは相手の「専門知識を交えた正論」に現場が迷わないためのスタッフ向け研修など、どのような小さなお悩みでも構いません。 相談はいつでもお気軽にお寄せください。皆さまの現場が、誇りと安心に満ちた場所であり続けるよう、全力で並走させていただきます。このような理不尽な前例トラブルへの対応や、組織全体の防犯体制・リスクマネジメントの構築に少しでも不安や課題を感じる場合は、専門的な知見を持つ外部のアドバイザーへ相談するのも確実な選択肢です。
いつでもお気軽に柴田建一(シバケン)までご相談ください。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
