医療現場における「ペイシェントハラスメント(以下、ペイハラ)」や患者・家族からの理不尽な組織的クレームへの対応は、今や単なる現場のトラブル処理の域を超え、病院経営および院内ガバナンスの根幹を揺るがす最重要課題となっています。
日々の多忙な診療業務の中で、窓口対応におけるちょっとした言葉遣いの不手際、手続き上の軽微なミス、あるいは医療行為や制度に関する説明の受け止め方の相違など、起因となる事象は多種多様であり、どのような医療機関であっても日常的に発生し得るものです。
しかし、一部の過剰なハラスメント気質を持つ患者やその家族は、単なる事態の客観的な解決や誠実な謝罪だけでは決して気が収まりません。彼らの本質的な目的は、ミスを突くことで優位に立ち、相手方を徹底的に屈服させること、すなわち自らの言いなりにしてコントロール下に置くという歪んだ成功体験を得ることにあります。
さらに深刻なのは、医療機関側が穏便に済ませようとして一度でもその過剰な要求を受け入れてしまうと、ハラスメント行為がそこで完結することはなく、また別の機会に、全く異なる原因や理不尽な理由を持ち出して不当な要求を繰り返し押し通そうとする「継続する・エスカレートする」するという罠に確実に陥るという点にあります。
このような悪質なクレーム対応の最前線において、現場の苦情を受けて上司や管理職、あるいはしかるべき役職者が対応に当たった際、極めて頻繁に発せられる特有のセリフがあります。
「ミスをした現場の本人を出せ」 「本人に直接この場で謝らせろ」 「直接本人から聞かなければ納得できん」
これは、現場職員個人を名指しで呼び出そうとする強い要求です。別のブログでも詳しくお話ししている通り、トラブルの初期段階において彼らは「現場の平職員では話にならないから上司を出せ」「院長を出せ」と組織の上層部を引っ張り出そうと画策するものです。しかし、いざ上司が組織としての事実関係の把握や対応方針、病院としての結論を踏まえて平然と表に出ていくと、今度は一転して「本人を出せ」と当事者個人への執着を見せ始めます。
この心理的な揺さぶりに対し、組織の最高責任者や院内統治を預かる立場から見て、クレーマー側に言われるがままに現場職員の本人を出させる行為は、ハラスメント対策に関しても、病院内の統治という関係性から行っても、原則として「絶対にやってはならない最悪の対応」であると考えざるを得ません。
👉初期対応における「不用意な謝罪」が、相手のハラスメント気質を爆発させる原因になります。こちらの記事もあわせてお読みください。 【限定謝罪の極意】その「すいません」がカスハラをモンスターに変える!? (https://shibaken-poli.com/2026/05/07/%e3%80%90%e9%99%90%e5%ae%9a%e8%ac%9d%e7%bd%aa%e3%81%ae%e6%a5%b5%e6%84%8f%e3%80%91%e3%81%9d%e3%81%ae%e3%80%8c%e3%81%99%e3%81%84%e3%81%be%e3%81%9b%e3%82%93%e3%80%8d%e3%81%8c%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%8f/)
本稿では、なぜ医療機関がこの要求に対して平然と、かつ毅然として拒否し、組織として盾にならなければならないのか、危機管理ガバナンスの視点からその本質を徹底的に解説します。
1. 「当事者の呼び出し」に応じることがもたらす院内統治の崩壊
ハラスメント気質を持つクレーマーが「本人を出せ」と執拗に要求する背景には、明確な組織破壊の心理的メカニズムが存在します。それは、組織が構築している正規のルールや指揮命令系統、苦情処理手続きを力ずくで飛び越え、自らの威圧的な影響力によって「病院という大きな組織そのものを自らの思い通りにコントロールできている」という強烈な成功体験を得たいという欲求です。
本来、現場でどのようなミスや不手際が発生したとしても、ひとたび管理職や上司が事実関係を確認し、病院としての対応方針を策定してクレーム対応の場に臨んでいる以上、その場における上司の発言や提示する方針こそが「病院としての公式な結論であり、最終的な責任ある姿勢」に他なりません。それにもかかわらず、相手の威圧的な態度や大声、執拗な要求に根負けして現場の職員を引っ張り出してしまう行為は、病院側が自ら敷いた組織の防衛ラインを自ら放棄し、譲歩することを意味します。
悪質なハラスメント患者やその家族は、こうした病院側の姿勢のブレや弱さ、組織としての統治能力の欠如を肌感覚で驚くほど敏感に察知しています。
「この病院は、上司が出てきてもさらに強く脅せば、簡単に組織としての結論をひっくり返して個人を差し出す脆弱な組織だ」と認識された瞬間、その患者や家族にとって病院のガバナンスは完全に無力化します。結果として、今回は本人の謝罪という形で表面的にその場が収まったように見えたとしても、それは解決ではなくハラスメントの始まりに過ぎません。また、本人が出てきた瞬間、それで納得するどころかさらに追及の手を止めようとしない場合も多々あります。次回の来院時や、また別の機会に別の原因が生じた際にも、「あの時と同じように強く要求すれば、自分の理不尽な要求もすべて押し通せる」という誤った学習をさせてしまい、病院全体が恒久的に不当要求のターゲットにされてしまうのです。
組織としての意思決定の一貫性を保ち、外部からの不当な介入から院内統治を守るためにも、対応責任者となった上司が平然と前面に立ち続け、自らが組織の最終決定権者として振る舞うことが不可欠です。
2. 警察組織のガバナンスに通ずる「部下を守る・盾になる」ことの本質的価値
この「外部の不当な圧力に対し、組織が一体となって職員を守る、徹底して盾になる」という思想は、私が現役時代に身を置いていた警察組織のガバナンスにも完全に共通するものです。警察は、厳格な指揮命令系統のもと、組織が一幅の絵のごとく一体となって強固な執行力を発揮しなければならない究極の危機管理組織です。そこにおいて最も厳しく求められる統治原則の一つが、「最前線で職務を執行する部下・職員を決して孤立させない」という点にあります。
もしも組織の管理職が、外部からの激しい抗議や揺さぶりに動揺し、現場の個人の責任に帰して当事者だけを切り捨てるような姿勢を見せれば、その瞬間に組織の信頼関係は瓦解し、誰もリスクを恐れて動けなくなってしまいます。
医療現場の内部統治においても全く同様です。日々、受付や看護、手続きの現場でコツコツと真面目に働き、目に見えないところで多くの成果や患者満足を積み上げていても、それらはすべて「病院の成果」とされる一方で、いざ一度のミスが発生した際の一番重い精神的リスクや最終的なツケだけを現場の個人に負わせるようなことがあれば、職員の士気(モチベーション)は完全に崩壊します。誰が前向きに最前線で仕事をしてくれるでしょうか。言われたことだけをする、その場をとにかく取り繕う職員の育成そのものです。
医療安全や健全な病院運営を維持するためには、非がある部分は組織として誠実に説明しつつも、現場職員の心理的安全性を担保し、組織が最大限にカバーして前面に出て戦うという強い姿勢を貫くことが不可欠です。部下を全力で守り抜く組織の背中を見せることこそが、内部統治を強固にする絶対的な基本原則なのです。
3. 実例分析:配膳時間トラブルにおける不当要求のエスカレートと組織的防衛
ここで、私が実際に安全対策支援アドバイザーとして医療機関から相談を受け、解決へと導いた具体的な事案をご紹介します。
これは実際に相談を受けた事例で、ある入院患者のケースですが、その患者は日頃から非常にハラスメント気質が強く、病院側に対して「他の患者とは違う、自分だけの特別な時間での配膳」を強く要望していました。病院側は配慮としてその要望に応じていましたが、ある時、院内の横の連携が一時的に機能せず、間違って本来の要望とは異なる一般の時間帯に配膳をしてしまうというミスが発生したのです。
この一度の不手際を契機に、患者のペイハラ行為は一気にエスカレートしました。執拗に徹底的な再発防止策の提示を求め、さらなる上位の「上司を出せ」と要求し、事態の経過報告を文書で残して提出せよ、といった様々な不当要求を連発してきたのです。病院側は上司が表に立ち、非のある点については真摯に説明と謝罪を行いましたが、相手の要求はエスカレートする一方でした。最後には、まるで自分が職場の上長か何かにでもなったかのように、病院の業務に対して「今後、具体的な経過を逐一報告し、自分の指示に従って運営を行え」という、院内統治を根底から破壊する理不尽な要求を突きつけてきたのです。
ここで私は病院側に対し、次のように一線を画すよう強く指導しました。
- これ以上の妥協は一切不要であり、これより上の役職者は絶対に出さない
- 経過報告などの文書の提出も一切拒否する
- 院内の横の連携は組織内で適切に対処するが、外部からの業務指示には一切応じない
病院の上層部が私の助言のもとで「これ以上の対応は一切ありません」と平然と、かつ決然としてすべての不当要求を断ち切ったところ、追い詰められた患者が最後に繰り出してきたカードが、やはり「ならば、ミスをした当事者(職員)をここに連れてきて直接謝らせろ」という要求でした。
ハラスメント患者の狙いは明確です。組織の壁が崩せないと悟ったため、最も弱い現場の個人を引っ張り出して吊るし上げ、自らの歪んだ優位性を満たそうとしたのです。しかし、ペイハラ対策としても職員のモチベーション維持の観点からも、ここは絶対に譲ってはならない生命線です。
私は病院側の強力な後ろ盾となり、この本人呼び出し要求を完璧にシャットアウトさせました。病院側が微塵のブレも見せず、組織一丸となった「毅然とした強い姿勢」を最後まで貫き通した結果、その患者は病院の底堅い防衛体制を肌で感じ取ったのか、それ以降、一切の不当な要求をピタリと行わなくなりました。
4. 「毅然とした対応」の実践要領と特別な事情を見極める危機察知力
この実例が示す通り、クレーマーの要求が最終局面に達した時に「上司が一度引き受けたからには、本人は絶対に出さない」という強い姿勢を貫くことこそが、ペイシェントハラスメント対策の本質そのものです。指導や処分は病院の内部ルールの領域であり、外部の人間が介入して私刑を科すような行為は断固として容認しないというスタンスを示すべきです。上司が引き受けた問題を最終的には、苦労しがんばっている現場職員が再び本人の前で謝罪する時の気持ちを考えてください。「病院は、私を守ってくれない」という失望が残るの明らかです。
ただし、危機管理の実務においては、一律のルール適用だけでなく、現場の状況を正しく分析する高い能力が求められます。それが、患者側と職員との間に強固な人間関係や「真の信頼関係」がある例外的なケースなのか、それとも悪質なハラスメント気質による不当要求なのかを見極める、まさしく「危機察知力」の行使です。
客観的に事象を分析し、「患者側が決して悪意やハラスメント気質から怒っているのではない。普段から信頼し、期待していた特定の職員のちょっとしたミスに対してショックを受けており、相手も直接本人の口から経緯を聞き、誠実な謝罪の言葉を聞きたいだけである」という特別な事情が分かっているような場合、「本人に直接話しをさせる」など少々の応用を利かせた柔軟な対応をとることは、関係修復において十分にあり得ることです。
しかし、この「信頼関係に基づく特別な事情」と「悪質なペイハラ」を峻別する危機察知力の不足は、医療界全体の共通課題でもあります。実際に、2022年に開催された日本医師会の安全対策に関する会議の中でも、多くの医療機関における重大な問題点として、このハラスメントの兆候や本質を不的確に見極める組織的なリスク管理能力の不足が明確に取り上げられました。
ハラスメント気質を見逃して安易に職員個人を差し出せば組織は崩壊し、逆に単なる説明不足や信頼の裏返しによる憤りに対して硬直的な拒絶をすれば、こじれなくてよい問題が泥沼化します。この境界線を見極める「危機察知力」を組織的に機能させ、適切な応用対応を選択できる審美眼こそが、経営層や管理職に求められる高度なガバナンス能力に他なりません。
結び
多くの医療機関におけるトラブルやペイシェントハラスメントの事例を分析してまいりましたが、ハラスメント気質を持つ患者やその家族は、病院側が示すわずかな姿勢の乱れや妥協を絶対に見逃しません。一度でも組織の原則を外れ、個人の防衛を怠った姿勢を肌で感じ取られれば、それは次なる不当要求への呼び水となってしまいます。
「一度上司が対応を引き受けたからには、原則として本人は絶対に表に出さない」という鉄則を組織の基本姿勢として揺るぎなく確立すること、これこそが医療現場の安全と職員の尊厳を守り、健全な院内統治を維持するためのガバナンスの第一歩となるのです。
こうした医療現場における危機管理体制の構築や、理不尽な要求に対する組織防衛デザインの設計には、多角的な視点と実戦的なノウハウが求められます。
私はこれまで、元警察署長としての組織管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を通じて、様々な事案の最前線でリスクマネジメントやガバナンスの最適化に携わってまいりました。現在は、福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーという大役を仰せつかり、市内の医療機関における各種相談対応や、コンプライアンス・ハラスメント防止に関する講話などの活動に日々、全力を尽くして走り回っております。
現場の職員を守り、揺るぎない院内ガバナンスを確立するための具体的な対応策や組織設計について、疑問や課題を抱えておられる経営者・管理職の皆様は、どうぞお一人で悩まれず、まずは「シバケン」までお気軽にご相談ください。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)事案分析と解決の設計士」シバケン
