はじめに:医療現場を疲弊させる「境界線なき理不尽」
日々の医療提供の現場において、患者からの不当な要求や激しい言動、いわゆる「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」に頭を悩ませる医療機関は後を絶ちません。特に、精神疾患をはじめとする何らかの背景を持ち、感情の起伏が極めて激しい患者への対応は、現場の医師や受付スタッフに深刻な精神的疲労をもたらします。
ある日は非常に穏やかで、こちらの説明を真摯に聞き、通常通りのコミュニケーションが成立する。しかし別の日には、待合室の待ち時間や「熱が下がらない」といった、医療のプロセス上不可避な事象に対して突如として激高し、院内に響き渡るような大声で怒鳴り散らす。このような極端な二面性を持つ患者を前にしたとき、多くの医療機関は「またいつ爆発するか分からない」という恐怖から、腫れ物に触るような対応に終始してしまいがちです。
しかし、この「腫れ物に触るような対応」こそが、実は無意識のうちに相手を増長させ、ハラスメント行為をエスカレートさせる最大の要因になっているという事実に、私たちは気付かなければなりません。本稿では、私が実際に医療機関から受けてきた具体的な相談事例を基に、ペイシェントハラスメント対策における「組織の基準設定」の重要性と、警察をはじめとする「外部機関との正しい連携スキーム」について、実効性の高い危機管理デザインの視点から解説します。
1. 現場の「事なかれ主義」が招く患者の無意識の増長
激しい感情の起伏を示す患者に対し、現場が「波風を立てたくない」「刺激して大騒ぎされたくない」と考え、その場を平身低頭でやり過ごそうとすることは、人間の心理として理解できなくはありません。しかし、危機管理の観点から言えば、この対応は最悪の結果をもたらすロジックを含んでいます。
明確な拒絶や注意をされないまま、大声を出したことで結果的に要求が通ったり、周囲が平謝りしたりする経験を繰り返すと、患者の側には「この場所では、この方法(大声を出すこと)が通用するのだ」という歪んだ学習効果が生まれます。つまり、病院側の曖昧な態度が、患者に対して「大声を出して威嚇しても許される空間である」という暗黙の許可を与えてしまっているのです。
ハラスメント対策の本質は、相手の行動を変えさせることだけではありません。それ以上に、「私たちの組織は、どのような行動を許容し、どのような行動を拒絶するのか」という組織の意思表示を行うことにあります。現場が恐怖に支配され、腫れ物に触るような対応を続けている限り、患者は無意識のうちに自らの優位性を確信し、その言動はますます増長していくことになります。
2. 毅然とした意思表示:その場に「基準」を打ち立てる最初の一歩
では、具体的に現場はどう動くべきなのでしょうか。患者が突如として大声を出し、威嚇的な態度を取ったその瞬間に必要なのは、感情的な反論ではなく、明確な拒絶の「意思表示」です。
具体的には、
- 「そのような大声を出されるのはやめてください」
- 「スタッフが怖がっています。やめてください」
という言葉を、毅然とした態度で伝えることです。 この一言を発することは、単にその場の騒音を止めるためだけの手段ではありません。その言葉を発した瞬間、その病院のその空間に、「ここでは、そのような威嚇的なものの言い方は一切認められない」という明確な基準(ルール)が創出されるのです。
医療機関は公共性の高い場所であり、他の多くの患者が治療や療養のために滞在する空間でもあります。一人の患者の暴挙を放置することは、良好な医療環境を維持する義務の放棄に他なりません。「やめてください」と口にすることは、現場の職員を守る防衛線であると同時に、病院という組織の規律を宣言する行為そのものなのです。
3. 「先生はどうしたいのですか」という問いが内包する経営・組織論
私はペイシェントハラスメント対策についての具体的な指導を行う中で、相談を受けた際に必ず院長先生や経営層に投げかける質問があります。
それは、「先生、最終的にこの患者をどうしたいのですか」という問いです。
この質問の意図は、ハラスメント対応のゴールをどこに設定するかを、組織のトップ自らに明確にしてもらうことにあります。具体的には、以下のようなグラデーションの中で、自院の方針を決定する必要があります。
- 病院として、もう二度とこの患者には来てもらいたくない(診療拒否・他院紹介の方向を探る)のか。
- 治療自体は継続するが、「大声を出して職員を威嚇すること」さえ止めさせて、通常の対応ができる範囲に収めたいのか。
- どこまでのクレームや不満の表出であれば許容し、どこからを一線を越えたハラスメントとして厳絶するのか。
この基準は、一律に法律やガイドラインが決定してくれるものではありません。それぞれの病院の規模、診療科目の特性、地域における役割、そして何よりも「そこの病院がどのような雰囲気や文化を大切にしているか」という組織デザインに深く直結しています。
トップの意思が曖昧なままでは、現場のスタッフは「どこまで耐えればいいのか」「どこで上司に報告・交代すればいいのか」の判断がつきません。逆に言えば、いつも患者が激しい起伏のままに暴れても、組織として何も対処していないということは、その病院は「大声を出されても構わない組織である」という基準を選択していることと同義なのです。
4. 凪(なぎ)の時間を捉えたアプローチ:主治医からの戦略的注意
感情の起伏が激しい患者へのアプローチにおいて、非常に有効でありながら多くの医療機関が失念しているのが、「患者の情緒が安定している通常時のアプローチ」です。
前述の通り、このタイプの患者には、人の話をよく聞き、極めて理性的かつ通常通りに対応できる「凪(なぎ)」の日が存在します。この、本人が冷静に物事を認識できるタイミングを狙って、診察室で医師(主治医)から直接、診察の一環として毅然と注意を促してもらうことが極めて重要です。
医師は患者に対し、以下のように語りかけるべきです。
「〇〇さん、前回の来院時、非常に大きな声を出されて周囲が驚いてしまいました。当院には他にも体調の悪い患者さんがたくさんおられますし、何より私の大切なスタッフたちが恐怖を感じてしまっています。この病院では、そのような大声での意思表示は一切許されない空間です。次回以降、もし同じように大声を出されるようなことがあれば、私たちは適切な診療の継続が難しくなると判断せざるを得ません。くれぐれも、落ち着いてお話しいただけますよう約束してください」
看護師や受付事務といった現場スタッフからの注意には反発する患者であっても、治療の主導権を握る主治医からの直接の言葉には、心理的な重みが全く異なります。本人が冷静な状態のときに、組織としての「絶対的な一線」を明確に伝えておくこと。これこそが、次回の爆発を未然に防ぐ強力な抑止力(プレベンション)となります。
👉関連ブログをどうぞ【意識改革】110番をしてもいいんだよ。——医療現場を守る「最後の切り札」の使い方 https://shibaken-poli.com/2026/04/29/%e3%80%90%e6%84%8f%e8%ad%98%e6%94%b9%e9%9d%a9%e3%80%91%ef%bc%91%ef%bc%91%ef%bc%90%e7%95%aa%e3%82%92%e3%81%97%e3%81%a6%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%84%e3%82%93%e3%81%a0%e3%82%88%e3%80%82/
5. 警察連携のリアル:管轄交番との「事前のパイプ構築」がもたらす効果
どれほど院内で基準を設け、主治医から注意を与えても、病的な要因や個人の資質によって、どうしても興奮状態を抑えられないケースは存在します。その際の究極のセーフティネットとなるのが、警察への通報(110番通報)です。
しかし、一般的な医療機関にとって、警察に通報するという行為は心理的ハードルが非常に高いものです。「これくらいのことで呼んでいいのだろうか」「逆恨みされたらどうしよう」という不安が先立ち、通報が遅れ、結果として被害が拡大するケースは少なくありません。
この不安感を解消し、通報へのハードルを下げるために私が実践しているのが、「医療機関の担当者を伴い、管轄の交番へ直接赴き、事前に協力関係を構築する」という実効的アプローチです。
実際に私が病院関係者を連れて地元の交番を訪れ、現状の相談と情報共有を行った際、現場の警察官(おまわりさん)から極めて示唆に富む言葉をいただきました。そのおまわりさんは、明確にこう言ったのです。
「病院の皆さん、患者が騒いだときには、どうか現場で一言『大きい声を出さないでください』『迷惑行為はやめてください』ときちんと注意をしてください。病院側がその意思表示を明確にやっておいていただければ、我々警察が駆けつけたときに、不退去罪や業務妨害罪など、様々な法的根拠に基づいて毅然とした対応を取ることができます」
この言葉には、警察という組織が動く上での、極めて重要な法律的・実務的なロジックが隠されています。
6. 被害意識の表明と外部的表明:なぜ「現場の注意」が不可欠なのか
警察官が語った「病院側からきちんと注意をしておいてほしい」という要望は、警察の介入正当性を担保するための決定的な要素です。
もし、患者が大声で騒いでいるにもかかわらず、病院側が「腫れ物に触るような対応」をし、形だけでも「申し訳ありません、申し訳ありません」と平謝りしていたとします。その状態で警察が通報を受けて臨場した場合、どうなるでしょうか。
警察の目から見れば、「当事者間でトラブルが発生しているが、店側(病院側)は謝罪対応を続けており、明確に『出て行け』とも『やめろ』とも言っていない」という状況に見えてしまいます。これでは、警察が民事不介入の原則を越えて、強制的に患者を排除したり、検挙したりするための「当事者の明確な被害意思」が客観的に証明されにくくなります。病院側が許容している(ように見える)ものに対して、外部である警察が「それはダメだ」と割り込むことは、法的にも説得力を欠くことになってしまうのです。
刑事事件の構成や、警察による行政警察活動(警告や制止など)において、被害者側が「その行為を拒絶している」「迷惑であると認識してやめるよう求めた」という外部的な表明・相手に対する明確な表明は、何よりも重要な要素となります。 現場で「やめてください」と声を大にして伝えることは、その場の患者を大人しくさせるためだけではなく、後に介入する警察に対して「私たちはこの行為を断固として拒絶しています」という強固な証拠(被害の意思表示)を提示するための、法的な防衛策に他ならないのです。
結び:組織の防犯デザインを再構築するために
ペイシェントハラスメント対策は、精神論や個人の我慢で解決できる問題ではありません。それは、組織としてどこに一線を引くかという「基準の設定」であり、その基準を破った者に対して毅然と対応する「手順の確立」であり、さらには警察などの外部機関と事前に強固な信頼関係を築いておく「防犯のネットワークデザイン」そのものです。
現場が一人で恐怖に耐える必要はありません。組織が守り、地域社会のシステム(警察)がそれを支える構造を作ること。これこそが、これからの医療危機管理に求められる本質です。
最後に少しだけ私自身の背景に触れさせていただきますと、私はかつて警察署長として地域の治安維持の最前線に立ち、その後は財務省や国税庁への出向といった異なる組織風土での危機管理・ガバナンス経験も積んでまいりました。現在は福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーという立場で、市内の医療現場が抱える数多くのリアルな相談対応や講話を行っております。
福岡の医療従事者の皆様が、安心して質の高い医療を提供できる環境を守るため、私の持つすべての知見と警察組織とのネットワークを提供する準備がございます。現場の対応で行き詰まりを感じたとき、または組織としてのハラスメント対策マニュアルを実効性の高いものへ刷新したいとお考えの際は、決して一人で抱え込まず、いつでもお気軽にご相談ください。
組織の安全を守るための具体的な解決策を、共にデザインしていきましょう。
困った時は、柴田建一(シバケン)まで。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
