執筆:事案分析と解決の設計士 柴田 建一(シバケン)
■ なぜ「やるべきこと」の第一歩が接遇マナーなのか
医療現場におけるペイシェントハラスメント対策を講じる上で、私が常に提言しているのが「ゴムマリ理論」です。これは、病院側のミスの有無や相手の言動、その場の状況に応じて、組織が真摯に果たすべき対応の範囲がゴムマリのように柔軟に伸縮するという危機管理の考え方です。
この理論を実務で機能させるための最大の鍵こそが、コミュニケーションのあり方です。
ペイシェントハラスメント(以下、ペイハラ)を限りなく減らすためには、まず組織として日頃から「やるべきことをやる」という誠実な応対が必要です。しかし、その伸縮するゴムマリの範囲をすべて尽くしたにもかかわらず、なおも境界線を越えて不当な要求を繰り返してくる相手に対しては、それ以上は応対ではなく「ペイハラ対策」へとフェーズを切り替えなければなりません。
そこから先は、組織としての明確な意思表示、すなわち「毅然とした対応」が必要不可欠になります。
しかし、この「毅然とした対応」という組織の強い意思を最も正確に、精度を高く、迅速に、そして最大限の力強さで相手に伝えることができるのは、電話やメールの文字ではなく、やはりお互いが顔を合わせる「面前でのコミュニケーション」に他なりません。
今回は、私が実際に受けたある多忙な院長先生からの相談事例を紐解きながら、電話でのコミュニケーションに潜む「認識のズレ」のリスクと、危機管理における「現場ファースト」の本質、および事案の進展に合わせて複数の防衛線を同時に展開する実戦的なゴムマリ理論の運用方法について、詳しく解説いたします。
■ 現場ファーストの姿勢:電話相談と面前面談の決定的な違い
私は現在、福岡市内の多数の医療機関からハラスメントやトラブルに関するご相談をお受けしていますが、私の基本姿勢(信条)は一貫して「現場ファースト」です。相談があった際には、可能な限り自ら現場へ足を運び、直接面談してコミュニケーションを取ることを最も重視しています。
なぜ、そこまで直接対話にこだわるのでしょうか。理由は大きく2つあります。
1. 言葉では見えない安心感と説得力
トラブルに直面し、「どうすればいいか分からない」という強い不安や心配、深い悩みを抱えている院長先生やスタッフの方々に対し、アドバイスする側が最も大きな安心感をもたらすことができるのは、直接会って話をすることです。顔を合わせ、目を見て話すからこそ、こちらの「自信を持った対応」や「これなら大丈夫だという説得力」が、言葉の表面を超えて相手の心にダイレクトに伝わるのです。
2. 行間を読み解き、認識のズレを防ぐ
コミュニケーションは、言葉(音声)だけで成り立っているわけではありません。お互いの表情、視線、身振り手振り、およびその場の空気感といった「アイコンタクトがあってのコミュニケーション」こそが、相手の本当の思惑や本音といった「行間」を読み解く唯一の手段です。 どれほど便利な時代になろうとも、電話でのやり取りには限界があります。相手の声のトーンだけで判断しようとすると、微妙なニュアンスの聞き違いや、意見の食い違い、話の認識のズレがどうしても発生しやすくなるのです。
しかし、今回私がご相談を受けたある病院の院長先生は、日常の診療業務や経営に追われ、極めて多忙を極めておられました。私が「現場へ訪問してお話を伺いましょうか」と申し出た際にも、「いや、時間が取れないので、電話で相談を聞いてくれれば結構です」とのことでした。
困っている方の要望を尊重し、その意向に寄り添うこともまた、相談対応としての重要な一理(誠実さ)です。そのため、相手の要望を超えて無理に現場へ押しかけるようなことはせず、今回は「電話による相談・アドバイス」という形で事案の対応をスタートすることにいたしました。もちろんここで言いたいのは、医療機関と患者との関係やたとえペイシェントハラスメント対策においても相手と対峙する(戦うという意味ではありません、コミュニケーションの意)が重要なのです。
■ 初動の立ち上がり:医療ミスを主張する患者への「やるべきこと」
院長先生から持ち込まれたトラブルは、「治療の結果に納得がいかない患者側が、病院側の『医療ミス』を激しく主張し、執拗な抗議を行ってきている」という、医療経営において最も神経を研ぎ澄まさなければならない重い事案でした。
私は電話を通じて、初動対応として以下の内容を厳格にアドバイスいたしました。
「今の段階であれば、たとえ患者さん側の主張にどれほど理不尽な点(非)があったとしても、まずは相手が『医療ミスだ』と主張しているというその前提・事実をしっかりと受け止め、非難するのではなく誠実に向き合う対応(実態の把握やできる対応等やるべきことをやる対応)を徹底してください」
なぜ、最初から「こちらに落ち度はない」と突っぱねてはならないのでしょうか。
もし、この初期の立ち上がりの対応を誤り、病院側が感情的に相手を門前払いしたり、客観的なプロセスを経ずに拒絶したりすれば、仮に将来この事案が民事訴訟などの「訴訟」に発展した際、裁判所や社会から「不誠実な対応である」とみなされ、最初の段階で病院側に大きなマイナス評価が下されてしまうからです。
危機管理における初動の立ち上がりのいかんによって、その後の展開は180度変わります。大前提として、病院側が組織として「やるべきことを、面倒くさがらずに淡々とやり切っている事実」を積み重ねること。これこそが、患者側の主観的な被害妄想や感情の暴発を抑え込み、理不尽なハラスメントを未然に防止するための確実な防壁となるのです。医療機関側の正当性がはるかに上回るのです。
このアドバイスを受け、病院側は電話のやり取りを通じて誠実な応対を継続し、次回の診察時に担当医師の医療的判断による本人の主張する病状についての正確な診察・検査を行う、というステップまで丁寧に進めることができました。
トラブルのうち、このハラスメント対策としての初動のやるべきことを徹底する段階において、相手が「病院側はこれほど真摯に話を聞き、対応してくれた」と納得し、行為がきれいに収まっていくケースもあります。
しかし、それはあくまで様々なケースがある場合の一つに過ぎません。そもそも最初からハラスメントを行う意図があったり、悪意を持っていたりする相手であれば、病院側がどれほど隙のない完璧な初期対応を徹底したとしても、理不尽に行為を継続してくる者も当然ながら数多く存在します。
今回の事案もまさにその後者であり、丁寧なコミュニケーションと診察を経てもなお、相手の「医療ミスである」という強い主張と執拗な追及が止むことはありませんでした。事態は、次のフェーズへと進展したのです。
■ ゴムマリ理論の2つのベクトル:紛争処理とハラスメント対策の同時展開
誠実なプロセスを尽くしたにもかかわらず、相手が客観的な医療的判断を無視して独自の「医療ミスの主張」を曲げない場合、ここから先は単なる顧客応対や接遇の領域を完全に超えています。
私は次の電話相談において、事態を解決へ導くため、ゴムマリ理論に基づく「2つのベクトル(防衛線)を同時に、並行して進めていく」という実戦的な次の手を指導・助言いたしました。
ベクトル①:専門的な客観的手続き(紛争処理)への移行
病院側がやるべき対応の範囲を尽くした以上、これ以上の水掛け論は無意味です。事案を「法的な紛争処理」のフェーズへと正式に切り替えます。 具体的には、病院の顧問弁護士等の専門家を通じて法律上の明確な客観的判断(裁量権の正当性)を固定すること、あるいは医師会の「医事調停委員」などの公的な第三者機関へ調査を依頼し、医療行為の適正性を公に担保する手続きへと移行します。相手が様々な主張を展開するのであれば、感情のぶつかり合いではなく、これら正式なリーガル・実務の手続きの土俵の上に事案を乗せてしまうのです。面倒でも内々でふたをしてしまわないようにすることです。
ベクトル②:毅然とした組織的対応(ハラスメント対策)への切り替え
客観的な手続きが進行しているにもかかわらず、相手がそれを無視して病院の窓口や電話で理不尽な暴言、長時間の拘束、職員への脅迫的な追及を並行して行い続けるのであれば、それは完全なる「業務妨害(ハラスメント)」です。 ここからは、組織の規律を持って「これ以上の理不尽な不当要求には一切応じない。用件はすべて弁護士(または調停の場)を通してください」という明確な一線を敷き、毅然とした拒絶の対応へと完全シフトします。
この2つのベクトルを同時に走らせることで、病院側は法的正当性を守りながら、現場の職員の心身をハラスメントの牙から完全に保護することができるのです。
👉 あわせて読みたい参考記事 まずは誠実な対応で自院の正当性を確立し、それでも相手の行為が続く場合に「紛争処理」と「ハラスメント対策」の2つの防衛線を同時に展開する。このゴムマリ理論が持つ2つのベクトルの具体的な仕組みと、対応を切り替える「臨界点」の詳しい見極め方については、こちらの過去記事でさらに鋭く解説しています。【医療安全の新常識】接遇とカスハラ対策を両立させる「ゴムマリ理論」とは?元警察署長が教える臨界点の見極め方 (https://shibaken-poli.com/2026/05/31/%e3%80%90%e5%8c%bb%e7%99%82%e5%ae%89%e5%85%a8%e3%81%ae%e6%96%b0%e5%b8%b8%e8%ad%98%e3%80%91%e6%8e%a5%e9%81%87%e3%81%a8%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%8f%e3%83%a9%e5%af%be%e7%ad%96%e3%82%92%e4%b8%a1%e7%ab%8b/)
■ 「なぜ最初から言ってくれなかったのか」:対面でしか伝わらない真意
この具体的な次の展開(フェーズの移行)と、将来の最悪のシナリオを見据えた最大公約数的なアドバイスを詳しくお伝えした瞬間、電話の向こうの院長先生から、ハッとしたような声で次のような発言が飛び出しました。
「柴田さん、なぜそのような解決の手順や、先々の見通しを、最初の相談の時から言ってくれなかったのですか!」
院長先生のご質問は、極めてもっともなものです。最初の段階で、この先のゴールまでの全体図がすべて分かっていれば、より安心して対応できたのではないか、という経営者としての率直な思いの現れだと思います。
しかし、私は最初からこのすべてのステップ(段階を踏んだ想定)を頭の中に描き、そのために必要な「初動の誠実な対応」を最優先として段階的に指導していたのです。なぜなら、最初のステップである「やるべき誠実な対応」を完全にやり切っておかなければ、その後に弁護士を出そうが調停に持ち込もうが、すべて病院側のガバナンスの慢心や怠慢とみなされ、次の手がすべて無効(大きなマイナス)になってしまうからです。
それにもかかわらず、院長先生に「最初から言ってくれればよかったのに」と感じさせてしまった原因。それこそが、まさに「面前でのコミュニケーションを行わなかったこと」の弊害そのものでした。
もし、私が最初の段階で、院長先生と直接お会いし、膝を突き合わせて面談をしていれば、私は口頭でのアドバイスだけでなく、この先事案がどう転がっていくかという「フェーズの移行図」や「想定される相手の動き」を、手元の資料やホワイトボードを使って、視覚的・立体的にすべてその場で示していたはずです。
対面であれば、院長先生の表情の「不安の行間」を私が瞬時に読み取り、「先生、まずは初動を固めますが、これがダメなら次は弁護士と調停を並行させる2つのベクトルで行きますから、絶対に安心してください」と、私の自信と説得力を100%の安心感としてお渡しできていたでしょう。
電話という限られた情報量(音声のみ)の中では、私がどれほど先々まで見据えて最大公約数的な安心の設計図を描いてアドバイスをしていても、その言葉の奥にある「段階を踏むことの本当の重要性」や「将来のイメージ」の全貌を、多忙を極める院長先生の脳裏にズレなく共有することは、物理的に非常に困難だったのです。
この事例は、ハラスメント対策や重大なリスク管理において、「面前での丁寧なコミュニケーションがいかに組織の意思疎通のズレを防ぎ、強固な安心感をもたらすか」という、人間社会の根本的な法則を私たちに改めて教えてくれています。
■ 結び:意思の疎通をデザインし、一分の隙もない組織防衛を
どれほど理路整然とした正しいアドバイスであっても、伝える手段(コミュニケーションの質)によって、その受け止め方や説得力には大きな開きが生じます。それは、病院とアドバイザーの関係だけでなく、医療機関と患者さん、あるいは院内の幹部と現場スタッフとの関係においても、全く同じことが言えます。
ハラスメント対策における「毅然とした対応」も、日頃の「やるべきことをやる応対」も、すべては顔を合わせ、目線を合わせる丁寧なコミュニケーションのインフラがあってこそ、初めて現場に強固な安心の防衛線として機能するのです。前例踏襲のやり方や、表面的な電話だけの対応に終始せず、直接向き合うことの力を信じてガバナンス体制をデザインしていくことが、これからの医療経営には決定的に求められています。
筆者は、元警察署長としての組織管理や危機管理の指揮経験、ならびに財務省・国税庁への出向業務を通じて培った組織統治の知見を基に、現在は福岡市医師会の医療安全対策支援アドバイザーとして、福岡市内の多数の医療機関の皆さまからハラスメントやトラブルに関する生々しいご相談をお受けし、実戦的なアドバイスや、各種研修会・勉強会での講話を行っております。また、医師会看護専門学校での講師として、これからの医療現場を背負う学生の皆さまへも、リスク管理と対話の本質を伝える授業を日々担当しております。
「こじれそうな患者対応があり、次のフェーズへの切り替えのタイミングに悩んでいる」「院内の情報共有や、上下のコミュニケーションの風通しを改善したい」「自院の初動対応マニュアルが、将来の訴訟リスクに耐えられるか専門的な判断を仰ぎたい」など、組織の安全と防衛に関する課題がございましたら、どうぞ一人で抱え込まずに、お気軽に私、柴田建一までご相談ください。
自画自賛の絵空事ではない、刑事37年の実務経験と現場ファーストの精神に基づき、皆さまの確かな後ろ盾となって、一分の隙もない安心の設計図を全力で共に描き上げてまいります。
本日も最後までブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。 今日もお疲れ様です。明日もまた、胸を張って素晴らしい仕事に向かってください。
福岡の、そして全国の医療現場の安全と発展に、心からの敬意を込めて。
【事案分析と解決の設計士:柴田 建一(シバケン)】
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
