執筆:事案分析と解決の設計士 柴田 建一(シバケン)
■ はじめに:「ノーと言えない医療界」を生み出した病巣の正体
医療・介護の最前線において、日々患者さんの生命と健康を守るために全力を尽くされている皆さまに、心からの敬意を表します。
現場で突発的な暴言や理不尽な不当要求に直面した際、なぜ多くの医療機関は「即座に拒絶する」という決断を下せないのでしょうか。そこには、現場の職員個人の気弱さではなく、医療界を70年にわたり縛り付け、思考停止に追い込んできた巨大な法統治の呪縛が存在します。それこそが、医師法第19条第1項に規定される「応招義務(おうしょうぎむ)」について、診療を拒否できる場合の正当性に関する厚生労働省の昭和24年に発出した通知です。それによれば、ほぼ何が起こっても医療機関は診療を拒否することができない立て付けになっていました。例え、診療科が違おうが、お金を払わなくても、悪天候でも、飲酒状態でもという内容です。
「医師は患者に求められたら、絶対に診療を断ってはならない」という強固な固定観念は、医療従事者の高い使命感を逆手に取る形で、現代のペイシェントハラスメント(以下、ペイハラ)を増長させる温床となってきました。
しかし、時代は大きく変わりました。日本の司法、および厚生労働省の行政指針もまた、現場の安全安心を無視した過剰な患者至上主義には明確にブレーキをかけ始めています。
今回は、この応招義務という医療界最大のテーマについて、明治憲法下にまで遡る歴史的な変遷と、2019年に発出された極めて重要な厚労省通知の意義、精度と実効性を備えた独自アプローチである「ハラスメントを検知する4つの分水嶺」について徹底的に解説いたします。
■ 1. 明治から戦後へ:応招義務がたどった「罰則」と「性質」の歴史的変遷
応招義務の本質を正しく理解するには、その歴史的な変遷を紐解く必要があります。そもそも、医療が担う公的な義務と社会的責任の重さは、時代を超えて一貫していますが、その法的な性質はドラスティックに変容を遂げてきました。
① 明治憲法下における「刑事罰」の時代
かつての日本において診療拒否は、国家が刑罰をもって取り締まる「犯罪行為」として規定されていました。1880年(明治13年)に制定された旧刑法、およびそれに基づく「違警罪違例(いけいざいいれい)」の領域において、「急病人の招きに応ぜざるものは罰金刑に処する」という旨の厳罰な規定が設けられていたのです。これが旧医師法(1906年制定)へと引き継がれ、旧医師法第17条には「医師は正当の事由なくして診療の求めを拒むときは、罰金に処する」と明確に刑事罰の対象として条文化されていました。
② 人間関係が密であった「良き時代」の背景
歴史を振り返る際、私たちは単に「罰則があったから医師が抑圧されていた」とだけ解釈すべきではありません。当時の社会は、現代に比べてはるかに「人間関係が密な時代」でもありました。医者と患者、あるいは地域社会との間に、目に見えない強固な信頼関係と、お互いに対する良識・常識、および何よりプロフェッショナルとしての「プライド」がそれぞれに息づいていたのです。
医師の側にも、現代のような防衛医療の意識ではなく、「俺が絶対に治してやるから、黙って俺の言うことに付いてこい」という、ある種、非常に高潔で強い使命感、責任感、精度高く一貫した医療への熱い理念がありました。患者側もまた、その医師の気概を信頼し、敬意を持って命を託していたのです。このように、人間関係の密さから生まれる良質なコミュニティが大部分の課題を自然と解決していた、豊かで美しい時代でもあったという側面は決して忘れてはなりません。
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③ 1948年(昭和23年)の法改正による本質的な大転換:プロフェッショナル倫理への昇華
この法統治のあり方が180度転換したのが、戦後の1948年(昭和23年)に制定された現行の「医師法」です。 戦後の法改正において、診療拒否に対して直ちに刑事罰を科すということは、「医師の身分や職業の自由を不当に拘束しすぎる」という人権上の配慮、およびプロフェッショナルとしての倫理的・法的な義務へと性質を変化させるべきだという強い議論がなされました。
その結果、現行の医師法第19条第1項には、
「診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、之を拒んではならない」 と規定され、かつての「罰金刑」という刑事罰は完全に撤廃されたのです。
では、罰則がないからといって単なる努力義務になったのかといえば、決してそうではありません。これは現在において、医師免許に対する「行政処分(医師免許の取り消しや業務停止)」や、厚生労働省・自治体による「行政監督」の対象としての行政法上の義務として、今なお厳然たる法的重みを保持し続けています。
■ 2. 昭和24年「70年の呪縛」:ペイハラを育んだ過剰受容の行政指導
刑事罰が消えたにもかかわらず、なぜ現場は「絶対に断れない」と思い込んできたのか。その明確な出発点となったのが、医師法制定の翌年、1949年(昭和24年)9月10日に厚生労働省から発出された、『医師法第19条第1項の「正当な事由」の解釈について』(医発第752号・厚生省医務局長通知)という1本の行政通知です。
この昭和24年の通知は、その後約70年間にわたり日本の医療行政における唯一無二の「応招義務の基準」として現場を支配し続けました。しかしその内容は、現代の危機管理の観点から見れば、極めて硬直的であり、正当な理由による拒絶の範囲を著しく制限するものでした。通知が示した具体例を振り返ってみましょう。
- 診療費の不払い: 「診療費が不払いであっても、それのみを理由に直ちに診療拒否をしてはならない」
- 診療時間外の来院: 「診療時間外であっても、急を要する患者の診療を拒むことはできない」
- 産業医の義務: 「直接の担当でなくとも、近くに他の医師がいない緊急時には、往診・治療に応じなければならない」
- 悪天候や自身の疲弊: 「事実上往診が不可能な健康不良等の場合を除き、多少の天候不良や休養不足を理由に拒んではならない」
言うなれば、天変地異や物理的な身体不調(ドクターストップ)がない限り、「医者であるならば、どのような悪条件下であっても、どのような患者であれ、できる限りのことをして見なさい」という精神論に近い教えだったのです。
この過剰なまでの受容を求める行政指導の土壌の中で、社会の歪みとともに、ある深刻な病巣が広がっていきました。それこそが、悪質な権利主張や「治療や対応をやってもらって当たり前」という歪んだ甘えを肥大化させた患者による、ペイシェントハラスメントの原型です。
かつての密な人間関係や相互の良識が失われ、希薄化した現代社会において、「医者は断れないはずだ」「こちらの言う通りに動くのが義務だ」という一方的な権利意識の変容は、医療の場をも激しく浸食しました。社会生活や地域コミュニティの円滑な営みをも揺るがすこのハラスメント問題に対し、これまでの医療業界が取り組んできたのは、残念ながら「いかにして怒る患者をなだめるか」「どのようにして一方的にこちらの接遇や配慮を磨くか」という、現場の忍耐に依存した『きれいごと』の研修ばかりでした。
ノーと言えない。毅然とするなど論外である。この70年の呪縛こそが、現場に致命的な萎縮効果をもたらし、今日のハラスメント問題を深刻な社会問題へと押し上げた真の一因なのです。
■ 3. 2019年のコペルニクス的転回:労働施策総合推進法と新応招義務通知の意義
この歪んだ構造に、国がようやくメスを入れたのが2019年(令和元年)です。この年は、日本のハラスメント対策における歴史的な大転換期でした。
① 労働施策総合推進法の改正とカスハラ言及
2019年、いわゆる「パワハラ防止法(労働施策総合推進法)」が改正され、事業主に対して職場におけるパワーハラスメント防止措置が義務付けられました。この際、極めて重要なのが、法律の「附則(ふそく)」において、カスタマーハラスメントや顧客からの著しい迷惑行為に対するハラスメント対策についても、国や事業主が然るべき対応を取り、必要な措置を講じるよう努めなければならないという旨の規定が明確に盛り込まれた点です。
社会全体が「顧客や患者の理不尽な暴力から働く人を守る」というガバナンスの舵を切った瞬間でした。
② 2019年12月「新・応招義務通知」の誕生
この労働法の流れと完全に連動する形で、厚生労働省は2019年12月25日、実に70年ぶりとなる応招義務の抜本的な新通知(医政発1225第4号)を発出しました。
この最新の通知では、医療の高度化や勤務医の労働環境変化を踏まえ、応招義務が適用される場面を「診療時間内か時間外か」「緊急対応が必要か不要か」という客観的な4マトリクスに明確に分類しました。精度を高めたルールとして、独立した項目として患者の迷惑行為による信頼関係の喪失を診療拒否の正当な事由として公式に認めた点にあります。
新通知の文言は、以下のようなお役所的で抽象的な表現ではあります。
「診療内容そのものとは関係のないクレームを繰り返し続けるなど、診療・療養等において生じた、又は生じている迷惑行為の対応に照らし、診療の基礎となる信頼関係が喪失している場合には、新たな診療を行わないことが正当化される」
しかし、この文言の持つ歴史的意義は計り知れません。国が公式に「現場を破壊するような悪質な迷惑行為を繰り返す患者は、信頼関係が破綻したものとみなし、医師法上の義務を免除する(=診療を拒絶してよい)」と宣言したのです。今までは全くと言っていいほど拒否する正当な自由がなかった時代から、明確な法的な防衛線が敷かれた瞬間でした。
■ 4. 専門家が語らない盲点:抽象的なお役所言葉を実務に落とし込む方法
2019年の通知によって「信頼関係の破壊があれば拒絶できる」という強力な武器が与えられたことは事実です。しかし、ここに現代の医療危機管理における新たな「死角」が潜んでいます。
規模の大きな行政のガイドラインや専門家の解説書を見ると、結局のところ「どのような状態が信頼関係の破壊にあたるのか」という核心部分については、具体性を欠いた抽象的な記述に留まっています。結局、よくあるパターンは、非常の場合に「自分たちで解決できない場合は、専門家である弁護士や警察などに相談を」という、現場丸投げの結論で締めくくられているのが現状です。
■ 5. 設計士シバケンが提唱する「ハラスメントを検知する4つの独自類型」
私は、長年の警察実務における加害者心理の分析、各種判例法規の徹底的な精査、解釈への習熟、および現在アドバイザーとして日々クリニックから受けている数多くのリアルな相談実績を融合させ、医療現場を脅かす行為者の行動パターンを、法律や裁判、行政の明確な根拠を持たせた形で4つの独自類型として完全システム化しています。
この基準に照らし合わせることで、現場は「これはハラスメントである」と迷いなく検知し、組織対応への分水嶺を跨ぐことが可能になります。
① 反復長時間拘束型(業務妨害アプローチ)
同じ主張や理不尽な不満を延々と繰り返し、何時間にもわたって受付や診察室を占拠する行為です。
- 根拠: 刑罰法令における「威力業務妨害罪(刑法第234条)」や「不退去罪(刑法第130条)」の構成要件を視野に入れます。「お引き取りください」という明確な退去要請を組織として3回以上行っても居座り続ける場合、それは信頼関係の破綻のみならず、直ちに刑事事件としての要件を具備し始めます。
② 患者権威・不当要求型(恐喝・強要アプローチ)
「俺は患者だぞ」「SNSに書き込んで病院を潰してやる」「誠意(金銭や特別待遇)を見せろ」と、不当なマウントを取って優位性を誇示する行為です。
- 根拠: 義務のないことを行わせようとする行為は「強要罪(刑法第223条)」、金品や過剰な減免を迫る行為は「恐喝罪(刑法第249条)」に直接抵触します。消費者の権利を著しく逸脱した要求があった時点で、寄り添いの範囲は臨界点に達します。
③ 暴言・威圧・脅迫型(威嚇アプローチ)
耳を聾(ろう)するような凄まじい大声、乱暴な言葉遣い、あるいは執拗な罵詈雑言を浴びせて職員を恐怖に陥れる行為です。
- 根拠: 生命や身体に危害を加える旨の告知は「脅迫罪(刑法第222条)」、大声での一方的な罵倒や誹謗は「侮辱罪(刑法第231条)」に該当します。職員の身体的・心理的環境を著しく悪化させる外形的な暴言や大声が発生した場合は、接遇のベクトルは即座に完全停止させなければなりません。
④ セクハラ痴漢型(尊厳侵害アプローチ)
医療行為や介助に便乗した不適切な身体への接触、卑猥な言動の強要、あるいは言葉による執拗な性的羞恥心の侵害によって職員の尊厳を著しく踏みにじる行為です。
- 根拠: 各都道府県の「迷惑防止条例(痴漢・執拗なつきまとい行為等)」や刑法の「不同意わいせつ罪(刑法第176条)」、さらには事業者としての「安全配慮義務(労働契約法第5条)」に直結します。職員の心身の安全と就業環境の尊厳を死守するため、組織の防衛権および警察通報を含めた法的措置を最も厳格に発動すべき類型です。
これら4つの類型は、行為者の「具体的な行動」に基づいているため、現場のスタッフが直感的に判断する最高の実務目安となります。この検知があって初めて、病院は一丸となった情報共有と、確固たる後ろ盾を持った組織的防衛へとスムーズに移行できるのです。
■ 結び:医療の公的使命を胸に、不落の城を共に築く
時代とともに変遷してきた医師法と応招義務。かつて刑事罰をもって縛られていた歴史が証明する通り、医療という仕事が背負う公的な義務、社会的責任、および目の前の命を救うという崇高な使命感の本質は、今も昔もいささかも変わりはありません。医療関係者の皆様がその職務の重要性を深く自覚し、強い責任感を持って日々の診療に臨まれていること自体が、地域の大きな財産です。
しかし、だからこそ、その尊い使命感を踏みにじるような、行き過ぎた主観による理不尽な要求や、著しく不当な手段を用いたハラスメント行為に対しては、組織の総力を挙げて毅然と立ち向かわなければなりません。
応招義務の歴史を正しく理解し、最新の2019年厚労省通知という強力な法的な盾が存在することを知るだけでも、現場の意識は劇的に変わります。「やるべきことをやり切った先には、守られる防衛線がある」という確信こそが、職員に凛とした強さをもたらすのです。
私自身、37年間にわたる法執行の最前線での歩み、警察署長としての組織統治、ならびに財務省・国税庁への出向業務を通じて、法律の条文やガバナンスがいかにして実務の現場を守る武器になるかを徹底的に研鑽してまいりました。現在は、福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーとして、福岡市内の数多くのクリニックから寄せられるリアルなトラブル相談に日々奔走し、実戦的な解決策や研修会での講話などの活動を行っております。また、医師会看護専門学校の教壇に立つ講師としても、これからの医療を担う次世代の学生たちへ授業を通じて自衛とリスク管理の重要性を伝えております。
「うちの現在のマニュアルが、応招義務の最新の法的解釈や訴訟リスクに耐えられるか確認したい」「独自4類型の考え方を院内研修でスタッフに落とし込みたい」「現場が安心して働ける強固な統治システムを設計したい」など、組織の安全管理に関する課題がございましたら、どうぞお一人で抱え込まずに、私、柴田建一までお気軽にご相談ください。
現場の痛みに寄り添った「一分の隙もない安心の設計図」を、皆さまと共に全力を尽くして描き上げてまいります。
本日も最後までブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。 今日もお疲れ様です。明日もまた、胸を張って素晴らしい仕事に向かってください。
福岡の、そして全国の医療現場の安全と発展に、心からの敬意を込めて。
【事案分析と解決の設計士:柴田 建一(シバケン)】
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdff)
