1. はじめに:令和8年10月の法改正と医療現場が直面する危機感
医療機関を取り巻く環境において、患者やその家族からの不当なクレームや著しい迷惑行為、いわゆる「ペイシェントハラスメント(患者ハラスメント)」は、現場の医療従事者を疲弊させる極めて深刻な問題となっています。これまで「患者第一主義」や「医療の奉仕性」という美名のもとに、現場個人の忍耐や対応スキルに委ねられてきたこの問題に対し、いよいよ国が明確な法的基準を設けることになりました。
それが、2026年(令和8年)10月1日より施行される、改正労働施策総合推進法に基づく「カスタマーハラスメント(カスハラ)対策の義務化」です。今回の法改正により、すべての事業主(医療機関においては病院長や理事長などの経営トップ)は、労働者が安全に働くことができる雇用管理上の環境を整備するため、必要な措置を講じることが「法的な義務」として課されることになります。
しかし、多くの医療経営者や組織のリーダーとお話しする中で、「また新しいマニュアルを作らなければならないのか」「形だけの指針を示せばそれで済むのだろうか」といった、形式的な対応に終始しようとする漠然とした受け止め方が散見されます。断言しますが、形だけのマニュアルや外部から買ってきた雛形を配るだけでは、現場の安全は1ミリも守られません。組織を守り、職員をハラスメントの脅威から解放するために最も必要なもの、それは「リーダーの方針と揺るぎない姿勢と意識」そのものだからです。
2. 法律と厚労省指針が求める「事業主の責任」の真実
ここで、今回の法改正において、我々が具体的にどのような法的責任を負い、何を義務付けられているのか、その根拠となる法律の名称と最新の指針について正確に把握しておく必要があります。ブログをお読みの院長・理事長の皆様は、以下の内容をぜひ組織の基本方針に組み込んでください。
- 関係法律の正式名称: 労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(略称:労働施策総合推進法)
- 改正法の施行日: 2026年(令和8年)10月1日施行(すべての事業主が対象、猶予期間なし)
- 厚生労働省指針の正式名称: 事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)
- 指針の発出(公布)年月日: 2026年(令和8年)2月26日
この厚生労働省の指針において、事業主が必ず講じなければならない措置として最優先に掲げられているのが、「事業主の方針等の明確化及びその周知・啓発」です。具体的には、カスタマーハラスメント(医療現場ではペイシェントハラスメント)に対する組織としての毅然とした態度、労働者を保護する旨の明確な方針を打ち出し、それを全職員に周知徹底させ、さらには患者側に対しても啓発していくことが求められています。
国がわざわざ「方針の明確化」を第一の措置に据えた理由は明白です。トップの方針が曖昧な組織では、その後にどれほど精緻な相談窓口を設けようが、事後の対応体制を整えようが、すべてが機能不全に陥ることを知っているからです。リーダーが「我が組織はハラスメントを許さない」と明確な意識をもって宣言することこそが、すべての対策の出発点であり、義務化の本質なのです。まして、形だけマニュアルを整える、ひな形をもとに作成して備え付けるだけで「雇用上の管理措置」(法的義務)を行ったとの意識では、職員にも患者にも決して中身が浸透し実効性を求めることはできません。
3. 警察組織で見た「トップの姿勢」が現場の裁量を変える現実
私はかつて、警察組織という非常に厳格な階層社会において、数々の組織運営に携わってきました。その経験から、トップ(本部長や警察署長)の考え方や姿勢が、いかに末端の現場組織をドラスティックに変えるかを何度も目の当たりにしてきました。
例えば、ある警察署に新しい署長が着任したとします。その署長が「地域の安全の基本は交通取り締まりと徹底した街頭活動にある」という強い方針を持っていた場合、組織の動きは一変します。日々見かける交通取り締まりの風景が厳格になり、交差点での指導警告、地域の交通安全研修や啓発活動が目に見えて増加します。逆に、別の署長が「住民の身近な不安を解消する防犯活動こそが最優先だ」と考えれば、防犯チラシの配布や地域住民と連携したパトロール活動にリソースが割かれるようになります(なお、昨今頻発する特殊詐欺への対策などは、検挙・抑止ともに警察全体の最重要命題であるため一概にトップの個性だけとは言えませんが、それでも地域でのアプローチの濃度には差が出ます)。民間協力に対し感謝状や署長表彰をよく見かけるのは特定の警察署や時期があるなと感じたことはありませんか?…
先に述べた交通取り締まりや防犯活動などもトップの方針で大きく変わってきますが、その中でも一般の方から見て「一番分かりやすい」のが、「刑事事件の処理」における現場の裁量です。皆様も、新聞やネットニュースで「最近、よく警察の事件や逮捕の記事を見かけるな」という時期と、「最近は全然見かけないな」という時期があることを思い出していただければ、お心当たりがあるのではないでしょうか。その報道の差こそが、トップの方針の違いによるものだと知れば、リーダーの考え方がいかに現場を変えるかが非常に分かりやすいと思います。
日々発生する粗暴事案や不法事案(小競り合いや軽微な法令違反など)は、統計的には減少傾向にあるものの、日常の現場では絶えず発生しています。そして、これらの事案を警察がどのように処理するかには、実は法律の範囲内において現場の警察官に非常に大きな裁量権が認められています。その事案を「口頭での厳重注意・警告」で終わらせるのか、それとも「逮捕」という強制捜査に踏み切るのか。幅は極めて広いのです。
ニュースで逮捕事案をよく見かける時期や、報道事案が多い警察署というのは、決してその地域の治安が突如悪化したわけではありません。多くの場合、トップが「裁量の枠内において、法的な技術判断をしっかりと行った上で、逮捕・立件できるものは妥協せずにすべて逮捕しなさい」という強い姿勢を示しているからに他なりません。逮捕によって社会へ強い警鐘を鳴らし、本人に猛省を促すことで再発防止を図る――このトップの揺るぎない覚悟と方針が、組織の末端まで自然と浸透し、現場の警察官が迷わず「毅然とした法的措置」を選択できるようになるのです。これこそが、リーダーの姿勢が組織の行動規範を決定づけるメカニズムです。
4. 組織論から見た「忖度(そんたく)」の本質とリーダーのメッセージ
「トップの方針の浸透」を考える上で、かつて政治の世界や行政の場で広く取り沙汰された「忖度(そんたく)」という言葉について、少し組織論的な視点から触れておきたいと思います。安倍政権時代、財務省の公文書改ざん問題などが発覚した際、マスコミや世論はこの「忖度」という言葉を「権力者への盲従」や「自己保身のための不正行為」といった、極めて歪んだ、悪意に満ちた揶揄として用いました。当時の報道に対して、私は組織の実務を知る者として、強い違和感を覚えた記憶があります。
本来、組織運営における「忖度」とは、決して悪い言葉でも不正を意味する言葉でもありません。「リーダーの意志、考え、姿勢を組織の構成員が正確に汲み取り、トップが望む方向性を先取りして、現場が自律的に強い判断を下して業務を進めていくこと」――これこそが、組織が一体となって機能するための理想的な状態だからです。いちいち細かい事案ごとにトップの伺いを立てて指示を待つのではなく、「今の我が組織の方針であれば、トップはこう判断するはずだ」という共通の価値観(プリンシプル)が現場に共有されているからこそ、組織は迅速かつ強力に動くことができます。
問題の本質は「忖度」そのものにあるのではなく、リーダーが発した、あるいは現場が汲み取った「方針の方向性」が間違っていたことにあります。もしリーダーが「法令遵守や組織の社会的責任」を絶対的な方針として示していれば、現場はそれを忖度し、不適切な圧力をはねのける強い判断を下したはずです。つまり、現場の構成員は良くも悪くも、リーダーの姿勢を恐ろしいほどの感度で先取りします。だからこそ、リーダーは自らの姿勢が一挙手一投足にいたるまで現場に影響を与えているという重い責任を自覚しなければならないのです。医療機関も同じです、院長、現場におけるトップである医師など。
5. 医療現場のリアル:優しい院長が招く「現場任せ」の崩壊
この組織論を、そのまま現在の医療機関、特にクリニックや中小病院に当てはめてみましょう。私が日々ご相談をお受けしている医療機関でも、ペイシェントハラスメントは断続的、かつ散発的に発生しています。
あるクリニックで、受付窓口において他の患者様がいるにもかかわらず、理不尽な要求を並べ立てて大声を出し、職員を威嚇し続ける患者がいました。受付スタッフや看護師が懸命に対応し、その場は私の具体的なアドバイスと指導によってなんとか収めることができました。しかし、再発防止のために極めて重要なのはここからです。
私はその際、院長先生と何度も面談を重ね、「今後もこの患者の診察を継続し、当院で受け入れるのであれば、次回、院長先生から直接、患者に対して『当院の職員へのハラスメント行為は絶対に許しません。次回同様のことがあれば、診療をお断りします』と一言注意をしてください」と強く進言しました。しかし、その院長先生は非常に穏やかで、患者さん想いの優しいお人柄であったがゆえに、患者に対して厳しいことを言うのを躊躇してしまい、結局、明確な注意を与えないままにしてしまいました。
リーダーが「厳しさ」や「毅然とした態度」を示さず、患者への対応を曖昧にしたとき、現場のスタッフにはどのようなメッセージとして伝わるでしょうか。現場は「院長は私たちの安全を守ってはくれない」「結局、トラブルは現場で穏便に片付けなければいけないんだ」「火種を大きくしないために、患者の言うなりになってその場を収めるしかない」と受け止めます。これこそが、安全安心の環境を「現場任せ」にした結果、組織の防衛線が崩壊していくプロセスです。
院長先生に悪気はなくとも、その「優しさ(=事なかれ主義)」の姿勢が現場に浸透した結果、患者のハラスメント行為を増長させ、結果として散発的なハラスメントがダラダラと継続する原因を作ってしまうのです。形だけのマニュアルを作っても、肝心の院長先生の姿勢がブレていれば、現場の意識改革など到底不可能です。
👉 現場と向き合う「トップの姿勢」について、さらに深く知りたい方はこちらの記事もあわせてお読みください。
ハラスメント対策の本質は、形だけの仕組み作りではなく、リーダーが現場の空気や熱量を直接肌で感じ取る「面前コミュニケーション」にあります。電話や書面だけでは見落としてしまう、現場の危機の「行間」をどう読み解くべきか、組織運営の根幹となる対話の力学を解説しています。【対話の力学】電話相談では見えない「行間」と、ハラスメント対策を分ける「面前コミュニケーション」の本質 (https://shibaken-poli.com/2026/06/27/%e3%80%90%e5%af%be%e8%a9%b1%e3%81%ae%e5%8a%9b%e5%ad%a6%e3%80%91%e9%9b%bb%e8%a9%b1%e7%9b%b8%e8%ab%87%e3%81%a7%e3%81%af%e8%a6%8b%e3%81%88%e3%81%aa%e3%81%84%e3%80%8c%e8%a1%8c%e9%96%93%e3%80%8d%e3%81%a8/)
6. マニュアルに命を吹き込む、リーダーの「一言」の重み
今回の労働施策総合推進法の改正に伴い、ペイシェントハラスメント対策を進める上で最も重要なことは、組織が一体となることです。何度も申し上げますが、形だけのマニュアルやポスターを掲示するだけで物事が好転することはありません。必要なのは、全職員の意識改革であり、いざという時には「組織全体で毅然とした対応を取る」という確固たる防衛体制の構築です。
そして、その体制を根底から支え、実効性を持たせるものこそが、院長や理事長といったリーダーの「一貫した姿勢と方針」です。医療の質の向上や日々の診察には人一倍の情熱を注ぎながらも、職員の「安全・安心」に関する環境整備については総務や現場任せにしている――そのような役割の棲み分けをしているクリニックは、遅かれ早かれ内部から安全が崩壊していきます。
法律や厚労省の指針が求めている「措置」をまずはしっかりと規程や方針として「明文化(形骸化させない形に構築)」すること。そして最も重要なのは、それを日常的にどう「運営」していくかです。運営を支えるのは、継続されたリーダーの姿勢に他なりません。
難しく考える必要はありません。リーダーがほんの一言、現場に関心を持つだけで組織は変わります。「最近、窓口で困った患者さんは来なかったかい?」「もし理不尽なことを言われたら、私が対応を代わるから絶対に一人で抱え込まないでくれよ」という、日々のちょっとした一言。現場の職員は、リーダーが発するその一言を、何倍もの安心感と信頼感、そして「この組織のために頑張ろう」という強いエンゲージメントの感覚で受け止めています。リーダーの方針と姿勢は揺るぎない一貫性を持って、現場を支え続ける灯台でなければならないのです。
医療機関における組織運営、ハラスメント対策でお悩みの経営者・管理職の皆様、現場の安全安心を守る体制構築は、組織論と法対応の双方に精通した専門家への相談が解決への近道です。
私は過去に警察組織において警察署長を歴任し、多くの危機管理や組織マネジメントの最前線に立ってまいりました。また、財務省(預金保険機構)や国税庁への出向経験を通じて、国家のガバナンスと厳格なコンプライアンスの実務に深く携わってきた経歴を有しております。現在はこれらの経験を社会に還元すべく、看護学校での講師を務めるとともに、福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーとして、市内の多数のクリニックや医療機関におけるリアルな相談対応や、現場の意識改革を促す研修を日々精力的に行っております。
法律の義務化への対応はもちろん、組織の一体感を高め、職員が安心して医療に専念できる環境づくりについて、現場の実態に即した具体的な解決策をご提案いたします。もし、日々の患者対応や組織の方針決定にお悩みがございましたら、どうぞ遠慮なくご相談ください。
柴田建一(シバケン)まで
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
