執筆:事案分析と解決の設計士 柴田 建一(シバケン)
■ はじめに:一通の悲痛なニュース報道に寄せて
超高齢社会、そして福祉の充実が叫ばれる現代日本において、日々多忙を極める医療・介護・福祉の最前線に立ち、利用者の皆さまの命と尊厳を支え、真摯に尽くされているすべての従事者の皆さま、そして組織の舵取りを担う経営者・管理職の皆さまに、心からの敬意と感謝を申し上げます。
私はこれまで、福岡県内の高齢者施設や医療機関において、安全対策の研修や相談対応、危機管理の実務講話を重ねてまいりました。その中で、さまざまな施設や在宅、訪問介護の現場で働く従事者の皆さまからお話を伺うたびに、ある極めて深刻な「過剰反応と萎縮」が広がっているのではないかと、強く肌で感じてきました。
「転倒を防ぐために良かれと思って一瞬手を添えた」「危ないと思って声をかけた」という、ケアとして当然かつ不可欠な行動であるはずのものが、すべて「身体的虐待(あるいは不適切なケア)にあたるのではないか」と、職員が極限の防衛反応を起こし、萎縮してしまっているように見受けられるのです。これは統計的なデータというよりも、私が福岡の現場で実際に向き合う中で感じている現実です。
そんな中、私の元に極めて重大で、かつ言葉を失うほど痛ましいニュースが飛び込んできました。
新聞各社や共同通信の報道(2026年6月17日付)によると、兵庫県内の障害福祉事業所で発生した事案をめぐり、16歳で逮捕その後死亡した女性の遺族が国と県に約1億円の損害賠償を求めて神戸地裁に提訴したというものです。
報道のタイムラインを整理すると、2025年2月、女性職員(当時16歳)が他者にかみつこうとする利用者を制止するためあごに手を添えたところ、目撃した別の利用者が虐待として自治体に申告。その後、被害届が出されたことを受けて、県警が同年6月に女性職員を暴行容疑で逮捕しました。女性職員は一貫して容疑を否認していましたが、逮捕後に体調を崩して救急搬送され、その翌日に釈放(のちに不起訴処分)。しかし、その後も重い摂食障害などが続き、同年12月に死亡したと報じられています。さらに、虐待を申告した利用者が、女性の死亡後に「オーバーに(大げさに)言ってしまった」と遺族に謝罪したという事実も訴状に盛り込まれているとのことです。
当然のことながら、これらは現時点で原告(遺族)側の訴状や報道によって開示されている範囲の情報であり、私自身も「報道で知る範囲」での分析に留まります。個別の事件の全容や最終的な是非は今後の司法の場で慎重に審理されるべきものであり、第三者からは見えない深い背景や、別の事実が存在する可能性も当然あります。
しかし、この客観的な報道から読み取れる構造的な問題──本人の危険や第三者の負傷を回避するための「正当な静止行為」が、外形だけを捉えて「暴行」や「身体的虐待」として一律に扱われかねない現場の歪みと、強制力を持った警察組織が介入した際のリスク──は、私たちが今まさに直面している「過剰萎縮」という病理の本質をあまりにも生々しく浮き彫りにしています。
今回は、私自身が法執行の最前線(元警察署長)で培ってきた刑法理論をベースに、行政ガイドラインが現場に与えている構造的な歪み、捜査機関が陥る死角、限度額に施行を控えるハラスメント関連法案の本質について、徹底的に論じてまいります。
■ 1. 現場を過剰な萎縮に追い込む、行政ガイドライン「3つの公的根拠」
なぜ、福祉や介護の現場がこれほどまでに過敏になり、過剰な防衛反応を起こしてしまう傾向にあるのか。それは職員が個人の感覚だけで神経質になっているというよりも、国や自治体が発出している公式な資料の「文言定義」が、現場のやむを得ない事情や行為者の意図を一切無視するほど厳格に構築されていることが影響していると考えられます。
私が講話等でも使用している、現場に極限のプレッシャーを与えていると思われる3つの公的資料とその正確な文言を検証します。
① 「怪我のリスク(おそれ)」だけで対象となる基準
- 根拠資料名:厚生労働省 老健局『市町村・都道府県における高齢者虐待への対応と養護者支援について(高齢者虐待対応手引き)』(👉公的文書はこちらhttps://www.mhlw.go.jp/content/12304250/001683361.pdf)
- 発出・改訂:2006年3月発出 / 2024年3月直近改訂
- 該当する正確な文言:高齢者虐待防止法第2条第5項第1号に基づき、「身体に外傷が生じる、又は生じるおそれのある暴行を加えること」
ここには、実際に怪我をさせたという結果だけでなく、「生じるおそれ(可能性)」という文言が明確に刻まれています。高齢者や障がいを持たれた利用者の皮膚や血管は非常に脆弱であり、突発的な事故や他害行為を防ぐために良かれと思って強く腕や体を支えただけでも内出血が生じる可能性は常にあります。この「おそれ」という文言の存在こそが、「一切触れないのが一番安全だ」という過剰な萎縮を生む大きな要因となっているのではないかと私は分析しています。
② 「良かれと思った一瞬の静止」も許さない基準
- 根拠資料名:厚生労働省『介護施設・事業所等で働く方々への 身体拘束廃止・防止の手引き』
- 👉公的文書はこちらhttps://www.mhlw.go.jp/content/12300000/001248430.pdf
- 発出・改訂:2001年3月発出 / 2021年3月改訂
- 該当する正確な文言:「立ち上がろうとする者の身体を押さえつけて起立を妨げる」
この文言には、「悪意を持って」や「乱暴に」といった修飾語は一言もありません。転倒・骨折のリスクが極めて高い利用者が立ち上がろうとした際、職員が「危ない!」と手を添えて優しくシートに戻すような、客観的には1秒足らずの軽微な静止行為であっても、文言上は一律に「身体拘束(=不適切なケア・虐待の芽)」に合致してしまう構造になっています。
③ 日常的な「言葉がけ」すら対象とする基準
- 根拠資料名:東京都福祉局『施設・事業者向け高齢者虐待防止対応マニュアル』など各自治体指針
- 👉公的文書はこちらhttps://www.fukushi1.metro.tokyo.lg.jp/zaishien/gyakutai/torikumi/manyuaru/pdf/R7_manyuaru_ver2.pdf
- 発出・改訂:2006年3月発出 / 2023年3月改訂
- 該当する正確な文言:「利用者の動きを制止するような言葉がけ(『座っててください』『動かないで』など)」「良かれと思って、あるいは仕方がなく行っている不適切な関わり」
身体的な接触のみならず、「座っててください」という日常的な声かけすらも行動を制限する「スピーチロック」として明記されています。さらに、「人手不足だから」「ワンオペの夜勤だから」という現場の切実なやむを得ない事情も、この文言によって否定されているのが現状です。
■ 2. 虐待ゼロを目指す「厳格化」の正当性と、そこへ行き着いた背景
誤解のないように強調しておきますが、国や自治体がこれほどまでに微細な行為を捉えて「不適切である」と厳しく資料に掲載し、研修を行うこと自体は、社会的に極めて健全であり、正しい方向性であると私は考えています。
なぜなら、現実の医療・介護・福祉現場においては、私たちの目を疑うようなあまりにも悲惨な虐待事例や、漫然とした不適切ケアが重大な犯罪へと発展したケースが後を絶たないからです。
たとえば、社会に極めて大きな衝撃を与えた代表的な刑事事件として、以下の2例が挙げられます。
【事案1】川崎市有料老人ホーム連続殺人事件(2014年発生) 神奈川県川崎市の有料老人ホームにおいて、2014年11月から12月にかけて、入所者の高齢者3名が相次いでベランダから転落死させられた痛ましい事件。のちの捜査により、元職員の男による意図的な投棄(殺人)であったことが判明し、死刑判決が言い渡されました。
【事案2】茨城県古河市・高齢者施設空気注入殺人事件(2020年発生) 茨城県古河市の医療法人が運営する介護老人保健施設において、2020年7月、元職員の女が入所者の男性の介護用点滴ラインに注射筒を用いて空気を注入し、殺害した事件。その後の捜査で別の入所者への殺人容疑でも再逮捕され、管理体制そのものが厳しく問われる契機となりました。
こうした凶悪な事件や、漫然とした介護放棄による傷害・死亡事故を「絶対にゼロにする」ためには、「小さな不適切なケアを放置すると職員の感覚が麻痺し、いずれ深刻な身体的暴力へとエスカレートしていく」という、いわゆる犯罪学上の「割れ窓理論」のロジックを適用せざるを得ないという側面があります。小さな綻びを絶対に許さないという行政の姿勢は、利用者の命を守る防波堤として不可欠なものです。
しかし、問題はその「先」にあります。
この徹底した排除論理を進めるのであれば、同時に「では、現場で懸命に尽くしているすべての職員の安全はどう守るのか」という対になる救済・防衛の視点がセットでなければならないはずです。
現場においては、利用者側やそのご家族から、時として事実に基づかない理不尽な指摘、あるいは不当な要求や、今回の兵庫の報道にあるような「誇張された申告」を突きつけられるリスクが常に隣り合わせです。現行の行政の指導やガイドライン、一般的な研修において、こうしたトラブルから職員個人の心身や組織の安全をどう守るのかという視点は、ほとんど触れられていません。
私は、このように「守られる側の権利」だけが際立ち、働く側の防衛体制や救済が置き去りにされてきた現場の歪みこそが、まさに今、社会問題となっているカスタマーハラスメントやペイシェントハラスメントを抑制するための「法律」を誕生させるに至った、重大な社会的事実であったと強く確信しています。
■ 3. カスハラ対策法(労働政策総合推進法)と共通する「バランス意識」の目的
こうした背景を経て、今まさに社会が直面している大きな動きが、ハラスメント対策の強化です。カスタマーハラスメントやペイシェントハラスメントへの対策を企業・法人に義務付ける「労働政策総合推進法」の改正法が、いよいよ2026年10月1日に施行を迎えます。
この法律が整備された背景には、先述したような行き過ぎた権利主張や不当な要求によって、サービスを提供する側の安心・安全や自己防衛の権利が脅かされ続け、現場が崩壊の危機に瀕してきたという歴史的な揺り戻しがあると考えられます。
ここで私たちが絶対に忘れてはならないのは、このカスハラ対策法が持つ「高いバランス意識と真の目的」です。
職場や職員を守るという観点は、一部の理不尽なクレーマーを排除して組織の殻にこもるためのものではありません。むしろ、例えて言えば「99.9%」の、真摯に医療や介護、福祉のケアを必要とされている大多数の誠実な患者・利用者・利用者のご家族の命と安全、そして尊厳を守るための対策法律であると私は捉えています。
ごく一握り(0.1%)の悪質なハラスメントや誇張された訴えによって職員が心身を病み、現場が弊害を受け、離職が相次げば、結果として煽りを受けるのは、その陰に隠れた99.9%の善良な利用者たちです。職員を守ることは、健全な福祉環境を維持し、残りの99.9%へ最高のケアを提供し続けるための絶対条件にほかなりません。
行政の「高齢者虐待防止」のガイドラインも、この「カスハラ対策法」も、根底にある目的の本質は全く同じはずです。「大多数の命と尊厳を守るために、どこに厳格な境界線を引くか」というバランス。この共通の目的意識を持った具体的な運用が、今まさに現場のマネジメント、そして行政の指導側にも強く求められているのではないでしょうか。
👇 ハラスメントの本質的な特徴や、組織が備えるべき安全配慮義務についての詳細はこちらの記事もあわせてご覧ください。 【ペイハラ対策】病院経営を揺るがす3つの特徴とリスク:安全配慮義務と労災認定から守る組織変革のステップ (https://shibaken-poli.com/2026/06/29/%e3%80%90%e3%83%9a%e3%82%a4%e3%83%8f%e3%83%a9%e5%af%be%e7%ad%96%e3%80%91%e7%97%85%e9%99%a2%e7%b5%8c%e5%96%b6%e3%82%92%e6%8f%ba%e3%82%8b%e3%81%8c%e3%81%993%e3%81%a4%e3%81%ae%e7%89%b9%e5%be%b4%e3%81%a8/)
■ 4. 刑法理論「行為無価値論」から見る、行政解釈と捜査機関の死角
この「目的の同一性」と「バランス意識」を踏まえた上で、冒頭に挙げた兵庫の事案、そして行政ガイドラインが現場に及ぼす歪みを、本来の日本の司法や刑法を適用する際の基本原理である刑法理論から照射してみましょう。
日本の近代刑法における有力な学説として、「行為無価値論」があります。
この理論は、ある行為が犯罪(違法)であるかどうかを判断するにあたり、単に「外形的に身体を押さえた」「あごに手を添えた」という客観的な結果や外形だけを見るのではありません。その行為を行った者の「目的、動機、その行動に至った経緯、そして主観的な意図」など、客観と主観を包括した「行為全体」を総合的に評価して初めて、違法性の有無や事件性を判断すべきだという思想です。
刑法の世界における「構成要件」とは、主体・行為・結果・因果関係といった客観的要素だけでなく、犯意(故意・目的)という主観的要素が含まれて初めて成立するのが基本の解釈です。
しかし、冒頭の事件報道や昨今の社会風潮を見ていると、司法の大原則であるはずの「主観と客観の統合」が揺らぎ、強制力を持った警察などの捜査機関が、はたして「冷静かつ公平な、客観的判断」をしてくれているのか、強い懸念を抱かざるを得ません。
もちろん、捜査の現場には外部から見えない緻密なプロセスや判断材料が存在するため、一概に外側からずさんであったと断定することはできません。しかし、もし仮に「目撃者が虐待だと騒いだ」「形式的な被害届が出た」という外形的な事象(結果)だけに引っ張られ、他害行為を制止しようとしたという「行為無価値的な評価(目的・動機・福祉上の必要性)」の裏付け捜査が蔑ろにされたまま逮捕などの強制捜査が進められていたのだとしたら、それは法執行のあり方として極めて慎重さを欠いていたと言わざるを得ません。
悪意ある暴行と、目の前の利用者の安全(他害の防止や転倒防止)を守るための緊急避難的な接触が、同じ「暴行」として断罪され、形式的な事件化やハラスメントとしての糾弾が乱発されるような結末が続けば、リスクを恐れて現場を次々と去っていく人材の流出を止められなくなると予想されます。これは単なる現場の愚痴ではなく、社会全体で真剣に考えていかなければならない構造的欠陥ではないでしょうか。
権利の主張も保護も、どちらも非常に大切です。だからこそ、相手に悪意や過失がない介護・福祉上の正当な理由があったのか。反対当事者である「行為者の声」にもしっかりと耳を傾け、主観と客観を総合的に判断した上で、現実的かつ適正な落としどころを見出せる社会こそが、真に健全な法治国家であり、健全な社会の姿であると考えています。
■ 結びに:正当なケアを守り、現場の誇りを取り戻すために
行政の厳格な文言のみに惑わされず、悲惨な虐待事件をゼロにする高い意識を持ちながらも、現場の実態に即した「正当な防衛線」を施設内に構築すること。これこそが、これ以上のハラスメントや理不尽なトラブル、そして事実誤認による刑事事件化を防ぎ、職員の皆さまの心身の安全を担保するための最大の鍵となるはずです。
私自身、37年間にわたる法執行の最前線(元警察署長)での歩み、ならびに財務省・国税庁への出向業務を通じて、主観と客観の統合による事案の法的評価や、厳格なコンプライアンス管理、コンサルティング実務を数多く統括してまいりました。現在は、福岡市医師会の医療安全対策支援アドバイザーとして、福岡県内の医療機関や高齢者施設、訪問介護・福祉現場からのリアルな相談対応や、危機管理に関する実務講話を精力的に行っております。
2026年10月の労働政策総合推進法の施行を控え、「自施設のケアマニュアルや防衛体制が、過剰な萎縮やリスクを招くものになっていないか専門的に点検してほしい」「理不尽な虐待の指摘や苦情対応、あるいはペイハラに直面しており、行為の正当性をロジカルに証明するための初期方針を一緒に設計してほしい」など、組織統治や現場の安全確保に関する具体的な課題、研修・講話のご依頼がございましたら、どうぞお一人で悩まれず、まずは私、柴田建一(シバケン)までお気軽にご相談ください。
「職員を守ることは、99.9%の善良な利用者・患者を守ること」
このブレない軸を共有し、働く職員が明日からまた誇りを持って笑顔で利用者に寄り添えるような、一分の隙もない安心の設計図を共に描いてまいりましょう。いつでもご連絡をお待ちしております。
本日も最後までブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。
今日もお疲れ様です。明日もまた、素晴らしい地域福祉の未来に向かって、毅然と進んでまいりましょう。
福岡の医療・介護現場の安全とガバナンスの発展に、心からの敬意を込めて。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
