1. 医療機関における「待ち時間」という宿命的摩擦と体感時間の乖離
病院やクリニックなどの医療機関において、「待ち時間が長い」という事象は避けて通ることのできない日常的な課題です。特に急性期病院や大病院、地域の中核を担う専門医療機関においては、診察や検査に半日近くを費やすことは一般的な「常識」であると言えます。
しかし、患者側の心理に目を向けると、ここには決定的な構造の歪みが存在します。それが「医療従事者の時間認識」と「患者の体感時間」との圧倒的な乖離です。医療従事者側は、一人ひとりの患者に対して適切な診察、入念な説明、突発的な急患対応、電子カルテの入力など、医療安全の観点から「削るべきではない正当なプロセス」を積み重ねています。一方で、病気への不安や身体的苦痛、さらにはその後の予定に対する焦りを抱える患者にとって、診療室の外で待たされる「不透明な時間」はイライラやストレスを増幅させる負の装置として働きやすいのが現実です。
多くの場合、この待ち時間への不満は、「どうなっているんですか」「あとどれくらいかかりますか」という通常の確認や、不安の裏返しとしてのイライラ交じりの質問として現れます。これらは通常の医療現場における適切な接遇や声かけによって解消されるべき事案ですが、中には明らかに手段や態様が社会通念上許容される範囲を超える「悪質なクレーム」、すなわちペイシェントハラスメント(ペイハラ)に発展するケースが少なくありません。
2. 応対・接遇マナーの限界と「ゴムマリ理論」による防衛線の引き方
医療現場において、どこまでが通常の「応対・接遇」であり、どこからが「ハラスメント対策」に切り替えるべき局面なのか。この境界線を明確にし、そして、待ち時間クレームについてどのような対応をすべきなのか、現場の対応力を柔軟に変容させるために、私は「ゴムマリ理論」を提唱しています。
ゴムマリ理論とは、相手(患者)の言動の性質や態度に応じて、医療機関側が「やるべきこと」の幅を柔軟に伸縮させ、最適な防衛ラインを構築するという考え方です。通常の待ち時間に対するクレームや不安に対しては、ゴムマリの柔軟性を最大限に活かし、丁寧かつ真摯な接遇対応の幅を広げて吸収します。具体的には、以下の対応が医療機関側の「やるべきこと」に含まれます。
- 共感と配慮の姿勢を示す:「大変長くお待たせしており、ご心配をおかけして誠に申し訳ありません」という、患者の心理に寄り添ったファーストアクション。
- 客観的な事実の説明:「本日は検査が混み合っておりまして…」「一人ひとりの診察とご説明に丁寧なお時間を要する患者様が続いておりまして…」といった、正当な理由の説明。
- 進捗状況の可視化(声かけ):「現在、〇番目でお待ちいただいております」「あと30分ほど要する見込みですが、一度中待合室でお休みになりますか」といった自発的なアナウンス。
これらはすべて、通常対応としての「目配り・気配り」の範囲内であり、一定の割合で必ず発生する摩擦を最小限に抑えるための基本技術です。しかし、相手の要求や手段がこの弾力的なゴムマリを突き破るような暴力性・理不尽さを持っていた場合、ゴムマリは硬く収縮し、毅然とした「ペイハラ対策」へと切り替えなければなりません。この柔軟な切り替えを可能にする起点こそが、医療機関に求められる「危機察知力」です。
3. 日本医師会も指摘した「危機察知力」の具体化と要注意サイン
令和4年7月、日本医師会の医療安全対策委員会は「医療従事者の安全を確保するための対策について(報告)」(👉参照資料https://www.med.or.jp/dl-med/teireikaiken/20220713_31.pdf)という提言を取りまとめました。この報告書の中でも、多くの医療機関において明確に不足している視点として指摘されたのが、リスクを早期に発見して予兆管理を行う「危機察知力」です。トラブルが大きくなってから慌てて対応するのではなく、初期段階で「この患者の言動は通常対応の枠組みを超えている」と瞬時に見極める能力が現場に求められています。
待ち時間クレームにおいて、危機察知力を働かせるべき具体的な「要注意サイン」には以下のようなものがあると私は考えます。
第一に、「こちらの説明を全く聞かず、一方的に自己の主張をまくし立てる態度」です。待ち時間が長くなることの理由や見込みを丁寧に説明しようとしているにもかかわらず、会話を遮り、自己の不満や理不尽な要求のみを繰り返し怒鳴り散らす行為は、対話による解決を拒絶している明確なシグナルです。
第二に、「手段の異常性と威圧性」です。最初から周囲を威圧するような大声を張り上げる、受付カウンターを叩く、院内に置いてある書類やパンフレットを投げ飛ばして抗議する、といった行為は、単なる不満の表明ではなく、恐怖心を与えて自らの要求を無理に通そうとする心理的・物理的攻撃です。
第三に、「身勝手な理由による特権の要求」です。「この後に予定があるから順番を早くしろ」「俺を誰だと思っているんだ」といった、合理的な理由のない順番の繰り上げ要求などは、他の患者との公平性を著しく害する自己中心的なハラスメント行為です。
これらのサインを検知した瞬間、現場スタッフは単なる「お詫びの接遇」を中止し、安全確保に向けた対応体制の移行(上席者への速やかな報告や複数人対応の確立)を選択しなければなりません。
4. ペイハラ対策における「毅然とした対応」の具体的手順とNG対応
危機察知力によってペイハラ事案と判定された場合、現場が取るべき対応は「平身低頭な平謝り」から「毅然とした対応」へと移行します。具体的な初期対応の手順と、絶対にやってはならない禁忌(NG対応)を解説します。
1)大声行為に対する明確な拒絶と「対話の条件付け」
院内で大声を上げる患者に対しては、まず感情を交えずに落ち着いたトーンで、しかし明確に制止の意思を伝えます。
- 「他のお客様や患者様が不安に思われますので、大声を出すのはおやめください」
- 「そのように怒鳴られますと、私どもも恐怖を感じ、正常なご案内ができません」
ここで極めて重要な原則は、「大声を出されている状態のまま、話の内容(本題)に入ってはならない」ということです。
相手が大きい声を上げているにもかかわらず、その勢いに押されて「待ち時間の理由」や「診察の順番」といった説明を始めてしまうと、相手の脳内には「大声を出しさえすれば要求を聞いて対応してくれる」「大声を出すことが許される場所なのだ」という誤った認識が定着してしまいます。大声のまま対応を継続すれば、その場は大声を容認する空間へと変質するのです。
したがって、初期対応の段階では苦情の中身に触れる必要はありません。まずは大声を止めさせること、静かな環境を作ることに全力を注ぎます。「まずは落ち着いて、お声を小さくしてください。お話しはそれから伺います」と告げ、相手が静かになることを対話の絶対条件とします。大声が収まり、しっかりと話ができる段階になって初めて、通常の「対応・接遇」として本題の話を進めるべきなのです。
2)物を投げられた場合などの措置:ケースバイケースに応じた段階的対応
もし、院内に置かれている紙やパンフレットを投げ飛ばす、あるいは受付カウンターを叩くといった行為が発生した場合、現場の状況や患者の様子に応じて、幅を持たせた柔軟な段階的対応が必要になります。
もちろん、これらは周囲の安全や業務を脅かす行為ではありますが、現場での関係性や状況によって切迫度は異なります。そのため、まずは現場の安全確保を第一とし、相手の興奮度合いや事態の深刻さに合わせ、段階的に対応の強度を調整します。
現場で相手をうまくコントロールすることが難しく、強い恐怖や危険を感じる事態であれば、これ以上の無理な対話を続けず、まずは十分な安全距離を確保してください。その上で、状況に応じて段階的に以下のような声かけや注意を行います。
- 「これ以上の行為が続くようでしたら、安全確保のため、警察への通報をしなければいけなくなります」
このように、いきなり硬直的な排除を行うのではなく、相手の反応を見ながら警告のニュアンスを調整します。しかし、現場スタッフが身体的な危険や強い恐怖を覚える事態であると判断した場合は、躊躇なく警察へ通報し、速やかに安全を確保することが必要です。
3)「不適切な便宜供与(特別扱い)」が招く負のスパイラル
ハラスメントを行う患者を「その場しのぎで黙らせる」ために、絶対にやってはならないのが、制度やルールを逸脱した便宜を図ることです。例えば、「用事を済ませてきていただければ、戻られた際に優先的に診察室へお通しします」「後ほど当院から携帯にお電話しますので、外でお待ちください」といった対応は、一見すると親切な解決策に見えるかもしれません。
しかし、ハラスメント気質の患者にとって、これは「大声を出し、威圧すれば特別扱い(便宜)を勝ち取れる」という強烈な成功体験になります。一度成功体験を与えると、その患者の要求は次回以降さらにエスカレートします。また、連絡のタイミングが数分遅れただけで「言った通りに電話してこないとはどういうことだ」と新たな激しいハラスメントの口実を与えてしまうことになります。
さらに重要な視点は、「周囲の他の患者もその光景を静かに見ている」ということです。ルールを守って静かに待っている患者が、「怒鳴った者が得をする」という病院の弱腰な姿勢を目撃すれば、医療機関への信頼は失墜し、最悪の場合、「自分も大声を出さなければ損をする」という別のハラスメントを誘発する負のスパイラルを生み出します。
4)次回への「約束や宿題」を絶対に背負わない
「次までに待ち時間を短くする仕組みを考えておけ」「院長にこの体制を改善させろ」といった要求に対し、「具体的善処をまとめます」「上に伝えて検討し回答します」といった安易な約束をしてはなりません。ハラスメント患者は、次回受診時に必ず「前回の件はどうなったのか」と追及してきます。約束を守れなかったという事実が、さらなる攻撃の大義名分となってしまうため、課題はその場、その受診の機会の中で完結させ、次への宿題を残さない心構えが不可欠です。
5. 事前・再発予防策としての「気配り・目配り」とアナウンス設計
事後の毅然とした対応と同時に、ゴムマリ理論の「やるべきこと」の中には、トラブルを未然に防ぐ、あるいはハラスメントの正当性を奪うための周到な事前対策(防犯・アナウンス設計)が含まれます。
まず有効なのが、事前受付段階でのインフォメーションの徹底です。当日の混雑が予見される場合、受付の時点で「本日は大変混み合っており、診察まで約〇分以上の待ち時間が発生する見込みです。お時間に余裕はございますでしょうか」といった明確な声かけ(目配り・気配り)を行います。あらかじめ認知させることで、患者側の心理的ハードルを下げるとともに、「聞いていなかった」という言いがかりを防ぐことができます。
また、院内掲示やホームページによる公式な告知も強力な抑止力となります。掲示物を作成する際は、単に「待ち時間が長くなることがあります」と謝罪するだけではなく、以下のような医療安全と公平性を担保する文言を含めることが重要です。
院内掲示・ホームページ告知の記載例
「当院では、患者様一人ひとりに対して安全で質の高い医療を提供するため、診察やご説明に十分なお時間をいただく場合がございます。また、患者様の病状や緊急度、あるいは高度な検査の進捗状況により、診察の順番が前後したり、大幅な待ち時間が発生することがございます。すべての患者様に公平かつ安全な医療を提供するため、何卒ご理解とご協力をお願い申し上げます。なお、院内での大声や暴言、物品の投げつけなどの他の方の迷惑となる行為・危険な行為に対しましては、安全確保のため、警察通報を含む厳正な対応をさせていただく場合がございます。」
このような公式なスタンスを明文化しておくことで、理不尽な要求をする患者に対して「院内規定および公式な案内通りに対応しております」と、現場スタッフが自信を持って対応するための物理的・心理的根拠を確立できます。
👉あわせて読みたい:こちらの過去記事では、具体的な裁判例をもとに、現場任せにせず組織一体となって対応するガバナンスの要諦と、トップがリーダーシップを取るべき本当の理由を詳しく解説しています。 👉「【カスハラ裁判】看護師4人退職裁判から紐解くガバナンスの死角:現場任せの院長が招く上下離反と病院が崩壊していく本当の理由」(https://shibaken-poli.com/2026/07/05/%e3%80%90%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%8f%e3%83%a9%e8%a3%81%e5%88%a4%e3%80%91%e7%9c%8b%e8%ad%b7%e5%b8%ab4%e4%ba%ba%e9%80%80%e8%81%b7%e8%a3%81%e5%88%a4%e3%81%8b%e3%82%89%e7%b4%90%e8%a7%a3%e3%81%8f%e3%82%ac/)
6. 現場の孤立を防ぐ実例分析と「トップの決断」の重要性
ペイハラ対策において、現場の看護師や受付事務スタッフが最も疲弊するのは、「組織やトップが守ってくれない」と感じる孤立感です。ここで、私が実際に相談を受け、解決へと導いた2つの実例を紹介します。
実例1:感情の波で受付を威圧するリピーター患者と、診療に専念したい医師の不作為
- 状況: その日の気分の良し悪しによって、受付で「待ち時間が長すぎる」としばらく激しい大声を上げ、時間が経つと何事もなかったかのように収まるという行為を繰り返す患者がいました。現場スタッフは「いつ爆発するか分からない」という極限の不安感を常に抱えていました。
- 問題点: 現場の悲鳴に対し、診察室の医師は「自分が診療の場にいる時は大人しい」「現場のもめ事に関わりたくない、診療だけに専念したい」という姿勢を崩さず、注意を行っていませんでした。
- 解決策: 私は、医師(管理者・トップ)がしっかりと介入すべき事案であると指導。患者の体調が良い時(大声を出していない平穏な診察時)を狙って、医師から直接「受付での大声は私どもの多大な迷惑になっており、当院としては見過ごせません。次回以降同様の行為があれば、以後の診療をお断りせざるを得ません」と明確に警告させました。トップである医師からの直接の通告により、患者の院内での粗暴言動は完全に収まりました。現場任せにせず、組織の権限者が直接引導を渡すことの重要性を示す典型例です。
実例2:散発的な理不尽クレームへの「場当たり対応」が招いた、重大な院内不法占拠事案
- 状況: 自分の都合で「早くしろ」と散発的な理不尽言動を行っていた患者に対し、医療機関側はその場を取り繕うような譲歩で対応を続けていました。その後、この患者の母親が入院した際、事態は最悪の形で露呈します。母親の容態が劇的に改善しないことを「医療ミスだ」と言いがかりをつけ、看護師や院長を呼び出しては30分〜1時間にわたり拘束し、同じクレームを延々と繰り返しました。さらに面会時間を一切守らず、職員専用の通用口から不法に侵入するなど、傍若無人な振る舞いが極限に達しました。
- 解決策: 病院側は「出入り禁止(診療契約の解除・退去命令)」を言い渡す決断を下しました。この事例は、「小さいうちに芽を摘んでおく(初期の軽微なペイハラへの適切な対応)」を怠り、場当たり的な対応を続けた結果、相手のモンスター化を医療機関自らが「育成」してしまった深刻な教訓と言えます。
7. 総括と医療ガバナンス構築への提言
本稿で論じた通り、病院の待ち時間を原因とするクレームは、適切な目配り・気配りによる「接遇」で吸収すべき通常事案と、医療安全を脅かす「ペイシェントハラスメント」として毅然と対応すべき事案に二分されます。これらを分かつのは、現場の鋭い「危機察知力」であり、それを支える「ゴムマリ理論」的柔軟性です。大声のまま本題の対応を進めてその場を「大声が許される空間」にしてはならず、物を投げる等の行為に対しては状況に応じた段階的なアプローチと安全確保のための警察通報も視野に入れた姿勢が求められます。特定の患者を黙らせるための不適切な便宜供与やその場しのぎの約束は、さらなる被害を拡大する毒薬でしかありません。初期の小さな違和感を見逃さず、トップが現場と一体となって安全線を死守することこそが、近代医療ガバナンスに求められる最重要課題です。
医療ガバナンスの確立や、現場を護るための具体的なペイハラ対応体制の構築、職員研修などについて、不安や課題を抱えておられる医療機関経営者・管理者の皆様は、決して現場だけで悩みを抱え込まず、お気軽にご相談ください。確かなリスクマネジメントの視点から、貴院に最も適した解決策を共に導き出してまいります。
執筆・相談窓口:柴田 建一(シバケン)
- 相談・お問い合わせ先: 柴田ガバナンスリサーチ研究所(シバケン)代表:柴田 建一までご相談ください。
- 専門プロフィール: 元警察署長。警察組織での長年の凶悪犯罪捜査および危機管理の実務をはじめ、財務省(預金保険機構)や国税庁への出向経験を通じ、官民にまたがる高度なコンプライアンス、リスクマネジメント、ガバナンス構築の知見を培う。現在は、看護学校での法学講師を務める傍ら、福岡市医師会安全対策支援アドバイザーとして、市内の多数の医療機関におけるペイシェントハラスメント対策、安全管理体制の構築支援、各種研修・講話の講師に精力的に従事している。現場の孤立を防ぎ、医療安全と職員の尊厳を守るために、実践的な解決へと導く専門家として活動中。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
