医療機関や各種講習において、私は常に一つの明確な基準を指導しています。それは、「医療従事者としてやるべきことをやり、毅然とした対応をとっても相手が応じない場合、あるいは自分たちの力では相手の行動をコントロールできない状態に陥った時は、躊躇なく110番通報をすること」という鉄則です。
現場からは「本当に110番していいのか」「警察を呼んだら大ごとになるのではないか」という質問を頻繁に受けます。しかし、私の指導を導入した数多くの病院では、現実に何度も110番通報が行われており、それによって問題が悪化したり解決しなかったりした事例は一件もありません。すべて平穏に解決へと導かれています。
なぜ医療現場において110番通報が必要なのか、見落とされがちな現場の盲点、精度を高めるための心構え、そして通報時に現場が持っておくべき説明の技術について、実例を交えながら詳しく解説します。
1. 医療現場に立ちはだかる「寄り添い」の呪縛と現状の問題点
長年、多くの医療機関において「110番通報」という選択肢は、そもそも想定すらされていませんでした。まさに未知の世界だったと言えます。その根本には、医療従事者が受けてきた「患者に寄り添う」という極めて真摯で崇高な教育研修の歴史があります。患者の苦痛を和らげ、不安を受け止めることが医療の原点であるからこそ、不条理な言動に対しても「私たちの説明が足りないのではないか」「もっと真摯に対応すれば分かってもらえるはずだ」と、内省的に抱え込んでしまう土壌が存在していました。
しかし、この「どこまでも寄り添おうとする姿勢」が、結果として悪質なペイシェントハラスメント(ペイハラ)を増長させ、エスカレートさせていく環境を作っていたことは否めません。医療従事者の善意や忍耐に甘え、理不尽な要求を押し通そうとする者に対して、境界線を引く手段を持たなかったからです。
こうした現状と問題意識は、中央の組織でも明確に共有されるようになっています。日本医師会が2022年(令和4年)に設置した「医療従事者の安全を確保するための対策検討委員会」(令和4年7月開催の委員会報告等)において審議された報告の中では、現状の問題点として「警察との緊密な連携体制の構築」(👉公文書はこちら「医療従事者の安全を確保するための対策について」https://www.med.or.jp/dl-med/teireikaiken/20220713_31.pdf)が明確に挙げられました。さらに、2022年6月20日には日本医師会からの要請を受ける形で、警察庁から各都道府県警察に対して「医療従事者等の安全確保を図るための相談対応や110番通報時の適切な指導・助言・対処」を求める通達が発出されています。(2024年2月20日警察庁生安局「各都道府県医師会及び医療機関との連携の推進等について」通達発出)
つまり、国や医師会レベルでも「医療機関は警察と連携すべきであり、その具体的な手段として110番通報や事前相談が不可欠である」と認めているのです。医療機関が警察に助けを求めることは、決して恥ずべきことでも、寄り添いの精神に反することでもありません。これこそが、公式に求められている「警察との連携」の具体的な始まりなのです。
2. ペイハラ対策において110番通報がもたらす「2つの重要な意義」
現場がコントロールを失った際に行う110番通報には、単に警察官を呼ぶということ以上に、ハラスメント対策における極めて重要な2つの意義があります。
意義①:混沌(カオス)とした状態を平定し、職員の安全と平穏を取り戻す
大声を出す、威嚇する、居座るなど、現場の力ではどうしようもできない混乱状態(カオス)に陥った際、110番通報は「その場を瞬時に平穏な状態へと戻す」強力な効果を持ちます。スタッフが「何をされるかわからない」という強い不安感や恐怖心に晒され続けているとき、国家権力と法執行のプロである警察官が現場に介入すること自体が、その空間の秩序を平定し、職員の精神的・身体的危険を取り除くことになります。
意義②:不条理な事実を「客観的な証拠」として確定させる
110番通報を行い、警察が現場に出向いたという事実そのものが、「この患者(または家族)は、医療機関が110番通報をせざるを得ないほどの不当な行為を行った」という極めて大きな事実と客観的な証拠になります。後日、その患者に対する今後の診療方針(診療拒否の正当事由の検討など)を決定したり、組織としてのハラスメント対策の方針を固めたりする際、この「110番通報の記録」は、いかなる院内カルテの記述よりも強力な法的・組織的根拠となります。
3. 現場対応における警察官の「裁量の幅」と不手際への向き合い方
110番通報は非常に有効な手段ですが、現場に臨場する警察官も人間であり、すべての警察官が全く同じ高い力量や同じ危機意識を持って対応しているわけではない、という現実も知っておく必要があります。警察官の現場措置には一定の「裁量の幅」があり、時には医療機関側の期待とは異なる、漫然とした対応や不適切な現場判断がなされるケースも存在します。
相談実例:救急搬送後の酩酊患者における警察の対応事例
ある二次救急医療機関において、夜間にこのような事案が発生し、院長から私に相談が寄せられたことがあります。
もともと公共の場所でひどく酔っ払っていた(酩酊状態の)人物を見つけた警察官が、本人の保護と緊急措置の必要性から、現場で自ら119番通報をして救急車を要請しました。その際、警察官は現場で救急隊員に患者を引き継いだため、病院へは同乗や同行をせず、そのまま引き揚げてしまいました。そのため、医療機関の窓口に到着したのは救急隊と酩酊した患者のみでした。
しかし搬送直後、患者は病院の処置室の処置台から起き上がり、病院内を大声を出してうろうろと徘徊し始めました。とても治療や処置を行える状態ではなくなったため、医療機関側は現場に警察官がいない状況を受け、110番通報をして警察官の臨場を求めました。
ところが、駆けつけた警察官に対してすら患者が突っかかっていったにもかかわらず、警察官は患者が「帰る」と言い出すと、住所や名前の十分な身元確認も行わずにそのまま帰らせてしまったのです。病院側は、少ない夜間体制の中で一生懸命に対応しようとしており、そもそも警察が端緒となって救急要請された患者であるにもかかわらず、暴れるだけ暴れさせて身元確認もせずに帰した警察の対応に対し、非常に強い不信感と不満(不本意な思い)を抱かれました。
対応の分析とアドバイス
この事例における警察の措置は、当初は警察自らが現場で救急要請をして医療的な措置を受けさせようとした経緯がある以上、後から呼ばれたとはいえ、現場の混乱を十分に収拾せず、医療側の安全を確保しないまま相手の言うがままに帰らせてしまった点において、確かに適切さを欠いていた対応であったと言わざるを得ません。
現場に赴いた個々の警察官の判断において、事態を穏便に済ませようとするあまり、現場での対応に甘さが生じたり、医療機関側の負担や立場への配慮が不足したりすることは、現実として起こり得ます。こうした警察側の「裁量の幅」による不手際から、病院のスタッフ(特に最前線の看護師など)の間に「どうせ110番しても警察は何もしてくれない」という諦めや不信感が少なからず生じてしまうケースもあります。
しかし、ここで重要なのは、たとえそのような不十分な現場措置であったとしても、最初に述べた「混乱状態を一時的に平定する」という目的、および「警察を呼ばざるを得ない事態であったという証拠化」の目的は、最低限達成されているということです。当面の危機は去っています。
現場の警察官の対応に不満や疑問を感じた際は、その場で警察官と感情的に言い争うのではなく、後日、組織(院長や事務長等の管理職)から所轄警察署の「地域課」に対して、経緯を論理的に説明し、今後の連携体制について申し入れを行うことが最も効果的です。地域課は交番などで勤務する制服のお巡りさんを統括している部署であるため、ここに現場の実情を伝えることで、次回以降の臨場時における対応の質が大きく向上します。
👉 過去の私の別の記事:なぜ1時間前の予兆は防衛に繋がらなかったのか?ハラスメント患者への組織的対応策(https://shibaken-poli.com/2026/06/10/%e3%80%90%e5%8c%bb%e7%99%82%e5%8d%b1%e6%a9%9f%e7%ae%a1%e7%90%86%e3%80%91%e3%81%aa%e3%81%9c1%e6%99%82%e9%96%93%e5%89%8d%e3%81%ae%e4%ba%88%e5%85%86%e3%81%af%e9%98%b2%e8%a1%9b%e3%81%ab%e7%b9%8b%e3%81%8c/※ここにURLを貼り付けます)
このような最悪の事態を防ぐための院内体制や、具体的な防犯体制の構築について、実際に私のもとへ多くの相談が寄せられています。警察との日頃からの情報共有や事前の相談体制を整えておくことも、地域課との実効性のある連携には欠かせない要素です。
4. 医療従事者が知っておくべき「通報・説明の技術」と現場の課題
警察官が臨場した際に、その裁量を正しく発揮させ、医療機関側に有利かつ適切な措置をとってもらうためには、通報時および警察官が到着した際における「説明の要領(技術)」が極めて重要になります。ただ「警察に来てほしい」とだけ伝えるのではない、自分たちの主観的な状況や客観的な妨害事実を、具体的かつ素直に説明する必要があります。
ここで、現在の医療現場に見受けられる大きな課題について触れておかなければなりません。現状として、110番通報を「呼ぶだけ呼んだら終わり」にしてしまい、警察官が臨場した後の説明や対応を二の次にして、自分たちの本来の医療業務へ戻してしまうというケースが少なくありません。
これは良い意味で捉えれば、「お巡りさんが来てくれさえすれば、あとはすべて解決してくれるだろう」という警察への高い信頼の表れでもあります。しかし悪い意味で捉えれば、完全な「連携不足」であり、当事者としてのコミュニケーションを放棄してしまっている状態と言えます。警察官は神様ではありません。現場に到着した瞬間には、それまで院内でどのような理不尽なやり取りがあったのか、一切の経緯を知らないのです。だからこそ、臨場した警察官に対して「何が起きており、何に困っているのか」をきちんと説明し、主体的に対応することが極めて大事になります。
ハラスメント対応における代表的な型を例に、警察官との効果的な連携を見据えた通報・説明のポイントを解説します。
① 暴言・威圧型への対応
実際に殴られたり、物を壊されたりしていなくても、大声での威嚇や暴言が続き、自分たちの力ではコントロールできない状態のときです。この場合、通報時や警察官が来た際に、「自分たちが今、どれほど恐ろしい思いをしているか」という主観的な恐怖心や切迫感を、省くことなく素直にしっかりと伝えることが肝要です。
「大声を挙げられて、何をされるか分からず本当に恐ろしいです」「自分たちではもうどうしようもありません、助けてください」と具体的に説明することで、警察側も事態の緊急性や被害者の心中を正確に把握し、迅速な対応へと動くことが可能になります。
② 反復・長時間拘束型への対応
大声を出したり暴れたりはしないものの、理不尽な主張や無理な要求を、延々と30分、1時間以上にわたって繰り返し、職員を拘束し続けるケースです。この場合、対応している当事者は精神的に消耗し、自分で110番通報をすることすら困難な状況に陥ります。そのため、周囲にいる第三者のスタッフや管理職が速やかに状況を察知し、110番通報を行う必要があります。
その際の説明のポイントは、法律の条文を並べることではなく、「具体的な被害の事実関係」と「被害者である職員の心中や当事者の感情」を理路整然と伝えることです。
「丁寧に必要な説明を尽くし、お引き取りいただくよう何度もお願いしていますが、理不尽な主張を延々と1時間近く続けられて居座られており、職員一同本当に困惑し、業務が完全に妨害されています」「他の患者様をお待たせしたままになっており、地域医療の提供に重大な支障が出ています」と説明します。
医療機関側が退去を求めているにもかかわらず執拗に居座る行為は不退去の事実に該当し、また業務を妨害する行為は刑法上の業務妨害や軽犯罪法における業務妨害などの事実関係に関わってきます。しかし、警察官がその場で警告や排除などの職務執行を行う最大の根拠となるのは、まさにこの「明確な被害の事実関係」と「助けを求める当事者の切実な感情・心中」なのです。
警察官が到着した際に、「あとはお巡りさん、勝手に対応してください」と丸投げして通常業務に戻してしまうのは絶対に避けてください。「これまでこれだけの被害の事実があり、職員も疲弊して困っています。お巡りさん、このように措置をしてください」と最後までしっかりと連携し、明確に意思を伝えることが、その後の警察の対応を大きく左右するのです。
5. 数字に見る110番通報の日常性と地域医療を守る決断
最後になりますが、110番通報という行為を過度に特別なものと捉える必要はありません。例えば福岡県内におけるここ数年の110番通報件数は、年間およそ60万件にのぼります。これは単純計算で、県民の「10人に1人」が1年間に1回は110番通報をしているという規模感です。
その通報内容の多くは交通事故などですが、中には「月極駐車場に知らない車が停まっている」「アパートの隣の部屋の音楽がうるさい」「見慣れない人が近所をうろうろしていて不審だ」といった、個人の心配事や自分ではどうしようもない些細なトラブルでの通報も日常的に数多く含まれているのが実情です。
一般の市民が、日々の生活における不安や困りごとでこれほど頻繁に110番通報を活用しているのです。ならば、日々地域医療のために全力を尽くし、多くの患者の命と健康を守っている医療従事者が、医療提供の場を脅かされ、自らの力ではどうしようもない事態に直面したときに、躊躇する理由がどこにあるでしょうか。
毅然とした対応の拠り所として、そして大切なスタッフと他の健常な患者の安全を守るためにも、限界を感じたときは迷わず110番の受話器を上げて一歩を踏み出してください。それこそが、日本医師会が掲げた「警察との連携」を実効性のあるものにし、安全な医療環境を自らの手で引き寄せるための確実な第一歩となるのです。
著者プロフィール・ご相談について
柴田 建一(シバケン) 元福岡県内警察署長。在職中は国税庁や財務省(預金保険機構)への出向経験も有し、多角的な視点からリスクマネジメントおよび組織統治の構築に尽力。警察退官後はこれまでの豊富な実務経験を活かし、現在は看護学校での講師を務める傍ら、福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーとして活動。市内の医療機関から寄せられる数多くの具体的なトラブル対応や実務に即した安全対策講話を行っている。
医療現場におけるペイシェントハラスメント対応、防犯体制の構築、警察との具体的な連携方法など、日々の現場対応で困った際のご相談や、各種研修・講話のご依頼については、どうぞご遠慮なく「柴田建一(シバケン)」までお問い合わせください。現場の平穏と、医療従事者の皆様が安心して働ける環境づくりを全力でサポートいたします。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
