医療現場において、患者さんやご家族からの理不尽な要求や暴言、暴力に悩まされるケースが後を絶ちません。一般社会では「カスタマーハラスメント(カスハラ)」として大きな社会問題になっていますが、医療機関においては「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」と呼ばれ、現場で働く皆さんの心身を深く疲弊させる深刻な課題となっています。
こうした現状に対し、現場の皆様は日々懸命に対応されていますが、時として法的な解釈や対応の方向性に迷いが生じることも少なくありません。このブログでは、医療現場でしばしば耳にする「せん妄状態の患者さんの言動は、病気だからカスハラ(ペイハラ)にはならない」という大きな誤解について、その根本的な原因と、現場が直面するリスクを紐解いていきます。
このブログを読むことで、なぜその考え方が危ういのか、そして2026年10月の法改正(カスハラ対策の措置義務化)に向けて、医療機関が現場のスタッフを守るために具体的にどう仕組みづくりをしていくべきか、課題の根本解決につながる視点が分かります。
ある医療安全担当者の一言と「動画知識」の落とし穴
先日、ある中規模病院様からハラスメントに関するご相談を受け、現場で直接お話をうかがう機会がありました。その際、医療安全を担当されている方が、こちらが特に何も尋ねていないのにもかかわらず、「せん妄はハラスメントになりませんから」と、かなり自信を持った様子でおっしゃったのです。
「それはどちらでお知りになったんですか」と伺うと、返ってきたのは「YouTubeやネットで見ました」というお答えでした。
私は正直、はっとしました。専門家という立場で情報を発信する人の一言が、現場の受け止め方をここまで確定させてしまうのかと痛感したからです。もちろん、「せん妄の症状として現れた言動そのものを、本人の意思による迷惑行為と完全に同列に並べて断罪すべきではない」という考え方には、一理ある面もあります。
せん妄とは、手術後に麻酔から覚醒したときや、薬剤の影響、発熱、脱水などをきっかけに、一時的に意識レベルが変動し、興奮したり、点滴を引き抜こうとしたり、周囲の職員に暴れて掴みかかったりする状態を指します。ご本人の人格や意思に基づく行動ではなく、身体的な原因によって引き起こされる病態です。高齢の入院患者さんを中心に、多くの医療機関が日常的に向き合っている問題でもあります。
しかし、その「病気である」という一理ある面だけが独り歩きし、「せん妄イコール対策不可能」「病気だからハラスメントではない」という単純な結論として現場に浸透してしまっているのだとすれば、これは現場の医療従事者を守るうえで見過ごせない重大な危機です。
誤解の出発点になっている「平成25年の裁判例」の真意
この「せん妄なら対策しなくてよい」という誤解が広まる背景には、一つの裁判例が関係していると考えられます。医療機関における暴力対策を扱う研修などでしばしば引用される、東京地方裁判所が平成25年2月19日に言い渡した判決です。
事案の概要は次のようなものでした。看護師が業務中に、不穏な状態(せん妄が疑われる状態)にあった入院患者から胸ぐらを掴まれ、頸部や肩を蹴られるなどの暴行を受けて負傷し、休職に至りました。このとき、被害を受けた看護師はナースコールで応援を呼んだにもかかわらず、他の看護師が直ちには駆けつけなかったという事情がありました。その後、この看護師は復職しましたが、しばらくして今度は食事介助中に別の入院患者から腕をつかまれて振り回されるという被害を受け、適応障害を発症してしまいます。
裁判所は、病院が看護師全員に対して、「ナースコールは患者が看護師を呼んでいる場合だけでなく、看護師が患者から暴力を受けている可能性があることも念頭に置いて対応し、直ちに応援に駆けつける体制を周知徹底すべきであった」という趣旨の安全配慮義務を負っていたと判断しました。そして、病院側の義務違反を認めて、損害賠償請求の一部を認容したのです。
この裁判例が示す真のメッセージを一言で言えば、「せん妄状態にある患者から看護師が被害を受けたときは、病院側に看護師を守る安全配慮義務がある」ということです。
しかし、この文脈が、伝聞や要約を重ねるうちに、いつの間にか逆向きに読み替えられてしまっています。「せん妄状態の患者による被害から看護師を守る義務が病院にある」という判決の趣旨が、「せん妄状態の患者による言動は、そもそも本人の意思ではないからハラスメントには当たらない(だからカスハラとしての対策はしなくてよい)」というすり替わったキーワードになってしまっているのです。
この判決は、病院が職員の安全をどう確保すべきかという「病院側の義務」を厳しく問うたものです。加害者となった患者の行為が、法律上のハラスメントの定義に該当するかどうかを判断したものではありません。病院側に守る義務があると認めた判決を、「対策をとらなくてよい理由」として使ってしまうのは、判決の趣旨を根本から取り違えています。まさに今の時代やカスハラの法律が施行されていれば、「病院側はカスハラ対策として事業主の義務を果たすべきところを・・・安全配慮義務を果たしていない」と判決理に書かれていてもおかしくないのです。
カスタマーハラスメントの法律上の定義に立ち返る
ここで改めて、法律と厚生労働省のマニュアルに基づいて、ハラスメント(カスハラ)の定義を確認してみましょう。
令和7年の労働施策総合推進法の改正により、第33条が新設され、事業主にカスタマーハラスメント対策の措置義務が課されることになりました(施行日は2026年10月1日)。この法律や、厚生労働省の「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」では、カスハラを実務的に次のように整理しています。
「顧客等からのクレーム・言動のうち、当該クレーム・言動の要求の内容の妥当性に照らして、当該要求を実現するための手段・態様が社会通念上不相当なものであって、当該手段・態様により、労働者の就業環境が害されるもの」
ここから抽出できる重要な要件は、以下の3点です。
- 顧客等に該当する者からの言動であること(医療機関であれば、患者やその家族)。
- 言動の内容や手段・態様が、社会通念に照らして相当な範囲を逸脱していること(暴力や大声での威圧など)。
- その言動によって、労働者の就業環境が害されること(心身の苦痛を受け、業務に重大な悪影響が生じること)。
ここで最も強調したい事実は、この法律上の定義のどこにも、行為者側の「主観(悪意があったかどうか)」や「故意か過失か」、そして「病気であるかどうか」「せん妄状態であるかどうか」という要素は、一切登場しないということです。
ハラスメントに該当するかどうかは、あくまで「客観的にどのような行為が行われ、それが就業環境にどのような影響を与えたか」という外形的な事実から判断される仕組みになっています。行為者の内心や医学的な背景は、ハラスメントという事象を定義する要件そのものには組み込まれていないのです。
病院がとる「対策」は、患者に直接の義務を課すものではない
実務上、もう一つ非常に大事な視点があります。医療機関がハラスメント対策として実際にとる措置の性質です。
たとえば、暴言があった際に「複数人で対応する」、事実を正確に残すために「会話の録音を行う」、あるいは「面会に一定の条件をつける」といった対策は、いずれも患者本人に対して「こうしなければならない」という直接的な義務を課すものではありません。
これらはすべて、「病院側・職員側の行動を変える仕組みづくり」です。記録を取るのも、複数人で部屋に入るのも、病院という組織の内部での行動選択であって、患者側に何かを強制したり罰を与えたりするものではありません。
つまり、相手の行為がせん妄によるものかどうかにかかわらず、客観的な行為の外形(暴力を振るう、大声で威圧するなど)に基づいて、病院として身を守るための必要最小限の措置をとることは十分に可能だという理屈が成り立ちます。相手の病状が確定していない段階であっても、自分たちの対応の仕方を変えるだけの対策は直ちに講じられるはずなのです。
👉特に、相手がせん妄などの病気の可能性がある段階であっても、適法性を担保する客観的な証拠として「録音・録画」による記録を徹底することは、現場のスタッフを守るための非常に有効な手段となります。ペイハラ対策における無断録音の法的根拠や正しい対応要領については、以下の過去ブログで詳しく解説していますので、ぜひあわせてご覧ください。過去のブログ:【現場を守る法的根拠】無断録音は違法?カスハラ対策の正しい記録術 (https://shibaken-poli.com/2026/08/16/%e3%80%90%e7%8f%be%e5%a0%b4%e3%82%92%e5%ae%88%e3%82%8b%e6%b3%95%e7%9a%84%e6%a0%b9%e6%8b%a0%e3%80%91%e7%84%a1%e6%96%ad%e9%8c%b2%e9%9f%b3%e3%81%af%e9%81%95%e6%b3%95%ef%bc%9f%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%8f/)
刑事法の理論と元警察署長の経験から見る「客観的事実」の重要性
ここで、私の警察官としての経験も踏まえて、もう一つ別の角度からこの整理を補強しておきたいと思います。
私はかつて捜査の現場で、明らかに精神疾患の疑いがある方、あるいは疾患を抱えていることが分かっている方を逮捕してきた経験が何度もあります。逮捕という強制的な手続きは、対象となる行為が「犯罪の形(構成要件)」に該当し、かつ法に触れる「違法性」が認められれば、それだけで発動できるものです。
行為者に責任能力があるかどうか、故意や過失があったかどうかといった「有責性」の判断は、逮捕の時点で確定している必要はありません。それらは、その後の捜査や精神鑑定、専門医の診断を通じて見極められていくものだからです。その後の見極めの中で、明らかに責任能力がなく、刑事手続きよりも医療を優先すべきだと判断されれば、精神保健福祉法に基づく医療的な措置へと適切に引き継がれていきます。
つまり、「外形的な行為」に基づいてまず必要な対応(現場の安全確保)をとり、責任能力や病気といった「主観面」の判断は並行して、あるいはその後に見極めていく。これが刑事法の理論であり、私自身が現場で運用してきた実務の鉄則でもあります。
目の前の暴力や暴言という外形的な行為に基づいて、まず必要な対応をとる。相手が病気かどうかという要素が判明するまで、安全対策そのものを止めてしまう必要はどこにもないのです。
「病気なら対策できない」がもたらす恐ろしい萎縮効果の現実
冒頭でご紹介した「せん妄はハラスメントになりませんから」という一言は、悪意から出たものではなく、動画から得た知識を善意で語ってくれたのだと思います。しかし、この半分正しい理屈はそのまま鵜呑みにされやすく、現場に最も恐ろしい「萎縮効果」をもたらします。
もし、「せん妄や精神疾患の場合は対策をとってはいけない」という理解が現場に浸透してしまうと、現実に何が起きるでしょうか。
現場の最前線で暴言や暴力を受けた医療従事者は、「もしかしたら、この人はせん妄なのかもしれない」「この精神疾患もせん妄と同じような状態なのだから」と、自らの被害を頭の中で無理やり納得させようとします。「病気」という言葉の適用範囲が際限なく広がり、その可能性があるというだけで、「病気だから仕方ない」と、今まで通り、いや今まで以上に過酷な我慢を強いられることになるのです。
さらに深刻なのは、暴言を吐く本人が「俺は病気だから大声を出してもいいんだ」と主張したり、家族が「彼は精神疾患だから大目に見てよ」と言い出したりした途端に、病院側が「病気が理由ならペイハラ対策は取れない」と思考停止に陥ってしまうケースです。
もしそんなことになれば、2026年10月から義務化される労働施策総合推進法の法規制は、一体何のためにできたのでしょうか。この法律はそもそも、働く人たちの「安全と安心」を保護法益(法律によって守られるべき利益)として定められたはずです。それが、「相手が病気かもしれない」という理由だけで全ての対策がストップし、現場が泣き寝入りを強いられるのであれば、法律による規制は何の意味もないものになってしまいます。
目の前で起きている暴力や暴言に対して、「病気だから」と組織がスタッフを守る行動を放棄してしまう。現場の医療従事者にひたすら自己犠牲を強いる。この「萎縮効果」こそが、真に恐ろしい問題なのです。
現場が実践すべき具体的な解決策「二段階アプローチ」
では、医療機関はどう考え、どう動くべきなのでしょうか。私は、交通事故現場の対応に近い発想が参考になると考えています。事故現場に駆けつけたとき、最初にすべきことは「原因が飲酒なのか体調不良なのか」を突き止めることではありません。まずは現場を保全し、二次被害を防ぎ、負傷者を安全な場所に移すことです。原因の究明はその後に並行して進めます。
ペイハラ対策も、これとまったく同じ順序で考える「二段階アプローチ」の仕組みづくりが必要です。
第一段階:客観的・外形的な行為に基づく初動対策
目の前で起きている行為が、社会通念上相当な範囲を逸脱していると客観的に評価できるのであれば、相手の病状が確定していようがいまいが、直ちに病院側の行動としてとれる措置(複数名での対応、記録の徹底、安全な距離の確保など)を講じます。これは患者に義務を課すものではないため、即座に実行できます。
同時に、外形的にみてせん妄などによるものである可能性がうかがわれる状況であれば、医療的な評価や治療を最優先させながら、安全確保のための対応も止めません。この並行作業こそが、現場の安全配慮義務を果たすことと、患者への適切な医療を両立させる道です。
患者さんに寄り添い治療をすることは医療機関の当然の責務ですが、そのために医療従事者の安全が二の次にされてよいわけではありません。両者はどちらかを犠牲にする関係ではなく、同時に果たすべき組織の責任です。
第二段階:病状の確定を踏まえた対策への切り替え
医学的な判断が下り、病状が明らかになった段階で、それを踏まえた対策へと重心を移していきます。
ここで最も重要なのは、「第二段階で病気が確定したからといって、第一段階でペイハラ対策として医療機関がとった措置が『なかったこと』になるわけではない」ということです。遡って考えても、それまでの間に現場のスタッフが身を守るためにとった行動は、すべて正当かつ有効な対応です。
そのうえで、病気が確定した段階以降は、医療的な措置を講じながらの安全対策へとアプローチを切り替えていきます。たとえば、せん妄の可能性があると分かった場合には、薬剤や環境の調整に加えて、「ご家族や保護者の方に同伴や付き添いをお願いする」といった対応が考えられます。
実は、この「ご家族に付き添ってもらう」という対応は、極めて重要な二つの意味を持っています。一つは、予測不能な行動から現場の看護師を守るという、組織の「安全配慮義務」を果たすための対策としての意味です。そしてもう一つは、見慣れたご家族がそばにいることで患者さん自身の不安や不穏を取り除き、医療機関として「患者さんに寄り添う(医療的措置)」という意味でもあります。
つまり、第一段階で事態を悪化させずに安全な状態を維持できたからこそ、こうした適切な治療環境の整備やご家族との連携へとスムーズに移行できるのです。
「病気かもしれないから何もできない」のではなく、「客観的事実に基づいて今できる身の守り方を徹底しながら、医学的な判断がついた後の対応に確実につなげていく」。この発想の転換こそが、現場を萎縮させずに法の趣旨を実現し、課題の根本解決へと導く鍵となります。
まとめと結び
ある裁判例が示していたのは、「病院には現場のスタッフを守る安全配慮義務がある」ということでした。それは決して、「病気であれば対策は不要だ」という結論を導くものではありません。情報の表面だけをなぞった誤解が現場を萎縮させる前に、客観的な事実に基づいた仕組みづくりを組織全体で進めていくことが急務です。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、担当者が個別でお悩みの場合もあるようですが、ご安心してお気軽に。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
参考・引用資料
※1 東京地方裁判所 平成25年2月19日判決(看護師が入院患者からの暴力により受傷・休職し、復職後にも再度暴力を受けた事案。病院の安全配慮義務違反を認め、損害賠償請求の一部を認容)。判例解説として、メディカルオンライン医療裁判研究会「医療機関における暴力行為の対策」、日本看護連盟「ナースのための判例解説③ 医療機関における暴力について」(infini.fan掲載)で紹介されています。なお、正式な事件名までは確認が取れていないため、裁判所名・判決日で表記しています。
※2 労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(労働施策総合推進法)第33条(令和7年改正・令和8年10月1日施行)。パワーハラスメント対策は同法第31条、セクシュアルハラスメント対策は男女雇用機会均等法第11条に、それぞれ事業主の措置義務として規定されています。
※3 厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(カスタマーハラスメント対策企業マニュアル作成事業検討委員会)。厚生労働省「あかるい職場応援団」カスタマーハラスメント特設ページもあわせてご参照ください。
