日々、多くの患者さんと誠実に向き合い、地域の医療を支えてくださっている医療従事者の皆様、本当にお疲れ様です。
近年、あらゆる業界で「カスタマーハラスメント(カスハラ)」が社会問題化しています。厚生労働省も指針を示し、国を挙げて対策に乗り出していますが、とりわけ医療機関におけるハラスメント——いわゆる「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」の現場は、他の業界とは異なる特有の難しさを抱えています。
「病気で不安を抱えている患者さんの気持ちに寄り添いたい」という医療従事者の皆様の強い使命感や優しさが、結果として理不尽な要求や暴言のターゲットにされてしまう悲しい現実が、そこにはあります。
本ブログでは、医療機関が避けては通れないカスハラ・ペイハラ問題に対し、どうすれば現場のスタッフを守り、組織としての安全管理を徹底できるのかについてお話しします。結論から申し上げますと、最大の防御策であり、危機管理の基本となるのは「明確な意思表示」と「その記録」です。
「言わなければ、なかったことになる」
この厳しい現実と、具体的な解決策について、私の実務経験と実際の相談事例を交えながら深く掘り下げていきます。
なぜ医療機関でのカスハラ対応は遅れがちなのか
医療機関からのご相談を受けていて最も多く感じるのは、皆様が「患者さんに対して強い態度に出ることに、強い罪悪感や戸惑いを感じている」ということです。
現場の優しさが生む「許容」という誤解
医療従事者の皆様は、患者さんの苦痛や不安を和らげることを第一に考えて行動されています。そのため、多少大声を上げられたり、理不尽な要求をされたりしても、「患者さんも辛いのだから」と我慢してしまう傾向にあります。
しかし、この「我慢して要求に応じる」という対応が、後々大きな問題を引き起こします。法律上、あるいは第三者の客観的な視点から見ると、病院側が何も言わずに要求に応じている状態は、「その行為を許容している」「通常の診療の範囲内として扱っている」とみなされてしまうからです。
労働施策総合推進法の文脈においても、事業主には従業員を守る「安全配慮義務」があります。現場のスタッフが恐怖を感じているのに、組織として「だめなものはだめ」と言えない状態を放置することは、この安全配慮義務に違反するリスクすらまたはらんでいます。
「応召義務」への誤解
また、医療機関特有の事情として「応召義務(医師法第19条)」の存在があります。「診療を求めてきた患者を、正当な理由なく断ってはならない」というこの法律が足かせとなり、「どんなに理不尽な態度をとられても、診療しなければならない」と思い込んでいるケースが非常に多く見られます。
しかし、厚生労働省の通達でも明確にされている通り、著しい迷惑行為やハラスメント行為によって、他の患者への診療に支障が出たり、スタッフの安全が脅かされたりする場合、事前に警告を行ったうえで診療をお断りすることは「正当な理由」として認められます。応召義務は、決して医療従事者が理不尽な暴力や暴言を無制限に耐え忍ぶための法律ではありません。
実例から学ぶ「意思表示」の重要性
私が実際に相談を受けた事例を通じて、現場で何が起きていたのか、そしてどう解決したのかを見ていきましょう。
事例1:大声での威圧——注意できないまま限界を迎えた受付対応
ある医療機関での出来事です。ある患者さんが、気分の波から待ち時間中に受付で大きな声で文句を言うことが度々ありました。
職員は「いつ大声を出されるか分からない」という恐怖心から、本人の言うがままに順番を優先させたり、本人が申し立てる検査をそのまま受けさせたりすることを繰り返していました。病院側の対応がいよいよ限界に達し、私のもとにご相談がありました。
私は直ちに「毅然とした対応(注意を行うこと)」を指導しましたが、病院側は「穏やかなときに注意して、逆に逆上されたらどうしよう」「インターネットなどで悪い口コミを書かれたらどうしよう」という不安から、なかなか踏み切れずにいました。
しかし、最終的には院長先生自らが立ち上がり、「このような大声を出す行為は、他の患者さんのご迷惑にもなり、当院としても到底受け入れられません」と明確に注意を行いました。驚くべきことに、その後、その患者さんの問題となる言動はピタリと止んだのです。「注意をしない」という病院側の態度が、図らずも相手を増長させていた典型的な事例です。
事例2:診察時間の私物化——数回しか言えなかった「NO」
別の病院では、長年にわたり、ある女性患者さんが順番待ちや待ち時間の長さについて不満を述べ、診察時間を「自分の心情をただ話すためだけの時間」として使おうとしていました。思い通りにならないと、医師に対して延々と説教を続けたり、激高したりする状態が続いていました。
いわゆる「反復・長時間拘束型」の迷惑行為です。医師が繰り返し丁寧に説明しても、医学的にこれ以上の説明のしようがない状況に至ったときには、「これ以上の説明はいたしかねます」「他にお待ちの患者様がいらっしゃいますので、本日の診察はここまでとします」という意思表示をしなければ、長時間の拘束は終わりません。
この事例では、長年の経過の中で、病院側が「それは困ります」と明確に意思表示をしたのはわずか数回に過ぎませんでした。最終的には、いきなり診療を拒否するのではなく、「次に同じような行為があれば診療をお断りします」という是正の機会を与えたうえで、それでも改善しなかった場合に診療をお断りするという、二段構えの対応を取ることで解決に向かいました。
事例3:不当要求の常態化——「だめ」と言えないことが生む恐怖の連鎖
あるメンタルヘルス領域の病院では、診察のたびに障害者手帳の提示を大声で拒否したり、診察時間を制限して「とにかく短時間で薬だけ出せ」と求めたりする患者さんへの対応が問題となっていました。
このケースでも、それまで「当院のルールとして、できないことはできません」という意思表示が一度もなされていませんでした。結果として、「大声で怒鳴られたくない」という思いから、患者の過剰な要求にそのまま応じるという悪循環に陥っていました。
ここでも私は院長先生の背中を押し、「ルールを守っていただけないなら対応できません」という意思表示そのものを後押ししました。
元警察署長が語る「意思表示の空白が、証拠の空白を生む」恐ろしさ
これら三つの事例に共通している最も重大な問題は、「大声を出されても注意ができなければ、それは客観的に見て病院側の『許容』と受け止められてしまう」ということです。
「怖かった」だけでは被害を証明できない現実
私は長年、警察官として多くの事件捜査に携わってきました。脅迫や恐喝といった事案において、公的な場で最も重要な争点になるのは「相手が実際に怖がっていたかどうか(行為に悪質性や強制力があったか)」です。
被害に遭われた方は、怖かったからこそ警察に届け出るわけですが、実際の現場では「怖くて言われるがままにうなずいてしまった」「相手を刺激しないように笑顔を作って対応してしまった」というケースが非常に多く存在します。
後になって「実はあのとき、すごく怖かったんです」と訴えても、いざ警察などの第三者が介入して事情を聴くと、加害者側は決まってこのように反論します。
「いや、いつも通りに話ししよったよ。何も怖がってないよ」 「ずっと昔からの関係なんやから、俺が少しぐらい声出したって全然怖がってないよ」 「普通通り話ししよっただけやん」
このような身勝手な言い分を許さないためにも、その場で「怖かった」「やめてください」と明確に意思表示をすることが絶対に不可欠なのです。もし何の意思表示もしていなければ、第三者——警察による事件化の判断や、究極的には裁判所における司法判断において——その行為を「脅迫」や「恐喝」として取り上げることが極めて難しくなってしまいます。
現場のスタッフがどれほど精神的に疲弊し、限界を感じていたとしても、意思表示の空白は、そのまま証拠の空白を生み出してしまうのです。
暴力団も顔色を変える「恐怖の言語化」の絶大な効果
実は、この「意思表示(恐怖の言語化)」は、単に証拠を残すためだけではなく、相手の攻撃をその場でストップさせるための極めて有効な手段でもあります。私の警察官時代の経験を一つお話しさせてください。
暴力団に対する家宅捜索や職務質問、取り調べの現場では、彼らは直接的な言葉を避け、「ほのめかし」による脅迫をよく使ってきます。
「あんた、家族おるんやろ?」 「夜道は月夜ばかりじゃないばい(暗がりで誰に襲われるか分からないぞ)」
ペイハラの現場でも、患者さんが「どうなるか知らんぞ」「誠意を見せろ」といった言葉を使ってくることがありますが、構図としては全く同じです。 このような言葉を投げかけられたとき、私はどうしていたか。真顔で、相手にこう返していました。
「うわあ……。自分が夜道でボコボコにされたり、家族に危害が加えられると考えたら、もう恐ろしくてたまらないです。怖いし、恐ろしいです」
これは、「私は今、強烈な恐怖を感じている」「お前の今の発言は、明確な脅迫行為だぞ」という強烈な意思表示です。すると、どうなると思いますか。ほぼすべての対象者が、見事に態度を豹変させます。
「は? 何のこと?」 「何も俺言ってないばい。なんか聞き間違いじゃないと?」
一気に言葉を濁し、穏やかな態度に変わるのです。彼らは、「これ以上凄むと、自分が完全に悪者(加害者)として立件されてしまう」という自己防衛本能を瞬時に働かせます。私の部下たちも同様の手法を使っていましたが、相手の勢いを削ぐうえで絶大な効果がありました。
これは医療機関のハラスメント対策でも全く同じです。「怖いです」「そのような発言は脅迫と受け取れます」という言葉は、相手に「あなたは今、一線を越えていますよ」と突きつける最強の防衛カードになるのです。
恐怖心の言語化こそが「最強の証拠」になる
では、どのような客観的証拠を集めればよいのでしょうか。言葉に詰まりながら話した事実、手の震えが止まらなかった事実、脅された直後に第三者へ助けを求めるメールを送っていた事実。これらも立派な証拠になります。
しかし、最も分かりやすく、客観性の高い最強の証拠は、その場での「言葉」です。
「そのような大声を出すのはやめてください。非常に怖いですし、業務の妨げになります」 「そのようなご要望には応じかねます」
極度の緊張状態の中でこの言葉を口にすることは、決して簡単なことではありません。しかし、勇気を出してこの言葉を発し、その事実を記録に残すことこそが、加害者の悪質性を裏付ける決定的な証拠となるのです。
明日からできる医療機関の具体的な解決策
こうした事情を踏まえると、医療機関が明日から取り組むべき実務的な対応は、実はそれほど複雑なものではありません。以下の二つを徹底するだけで、組織のリスク管理は劇的に向上します。
1. 「言うべき言葉」をあらかじめ決めておき、口に出して伝える
いざという時に言葉が出ないのは、準備をしていないからです。組織全体で「こういう場面では、このように伝える」という言葉のルールを決めておきましょう。
- 「他の患者さんのご迷惑になりますので、大声を出すのはおやめください」
- 「当院のルールとして、そのご要望にはお応えできません」
- 「これ以上の説明はいたしかねます。本日はお引き取りください」
相手を攻撃するのではなく、事実と病院の方針を淡々と、しかし明確に伝えることが「毅然とした対応」の本質です。
2. 伝えた内容と患者の反応をカルテや対応記録に残す
口頭で伝えただけでは、「言った、言わない」の水掛け論になる危険性があります。必ず、日時とともに以下の内容を記録に残してください。
- 患者がどのような要求・行動をしたか(客観的な事実)
- 病院側がどのような言葉で「意思表示(注意・お断り)」をしたか
- その意思表示に対して、患者がどう反応したか
この記録が積み重なることで、「病院側は決して黙認していなかった」「再三の注意にもかかわらず迷惑行為が繰り返された」という強固な客観的証拠(エビデンス)が完成します。
まとめ:意思表示は、加害の抑止にも被害の証明にも直結する
医療機関の側から見れば、「だめなものはだめです」という意思表示を明確に行い、記録に残すことが、一部の患者さんへの不適切な特別扱いを防ぎ、将来的に診療をお断りするなどの毅然とした対応をとる際の、強力な法的・客観的な土台となります。
一方で、現場で被害を受けるスタッフの側から見れば、「怖いです」「やめてください」という一言を言葉にして残せるかどうかが、ご自身の被害を証明し、組織に守ってもらうための生命線になります。
立場は違えど、「意思表示を明確にする」ということは、危機管理の現場において今も昔も変わらない、最も重要な鉄則なのです。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護専門学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。
もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、担当者が個別でお悩みの場合もあるようですが、安心してお気軽に声をかてください。
本日も最後まで本ブログをお読みいただき、誠にありがとうございます。日々、最前線で患者さんと向き合っておられる医療現場の皆様に、心からの敬意を表します。今日もお疲れ様です。
【事案分析と解決の設計士:柴田 建一(シバケン)】
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
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