ある日の外来受付でのひとコマを想像してみてください。「予約通りに来ているのに、なぜこんなに待たされるんだ」と、ご自身の都合だけを理由に大きな声を出して詰め寄る患者さん。程度の差こそあれ、日々最前線で患者さんと向き合っている医療機関において、こうした場面に覚えのある方は決して少なくないはずです。
このとき、現場の最前線に立つスタッフが最も悩むのは、「どこまで下手に出て対応すべきなのか」「どこから毅然と線を引いていいのか」という判断です。丁寧に説明を尽くすべき場面なのか、それとも「大きな声を出さないでください、周囲の患者さんも驚かれますし、私たちも怖いです」と明確に伝えて構わない場面なのか。この境界線が曖昧なままだと現場のスタッフは過度に疲弊し、逆に判断を誤ればクレームはさらにこじれて重大なトラブルへと発展してしまいます。
このブログを読むことで、クレームと悪質なハラスメントの境界線を明確に見極め、日々の業務の中で現場のスタッフを守るための具体的な仕組みづくりについて学ぶことができます。私が実際の研修や個別相談の現場で指導している「ゴムマリ理論」と、相手の行為を客観的に評価する「フェーズ0から3」という二つの物差しを重ね合わせることで、医療機関が組織としてどう判断し、どう動くべきかをお伝えいたします。
医療現場特有のカスハラ問題と、現場スタッフが抱える深いジレンマ
近年、様々な業界で顧客からの著しい迷惑行為が社会問題化しています。労働施策総合推進法などの法的な文脈や一般的な報道においては広く「カスハラ(カスタマーハラスメント)」と呼ばれ、検索等でもこの言葉が一般化しています。一方で、厚生労働省の指針等において、医療機関向けには「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」という言葉が用いられています。本ブログでは、検索等でお調べになる方にも分かりやすいよう、一般的なカスハラという言葉も交えながら、医療現場における特有のハラスメント問題について深く掘り下げていきます。
医療機関におけるカスハラ対応のご相談を受けていて私が常に痛感するのは、「この段階になったら、こう対応する」という単一の基準や、型通りのマニュアルだけでは、現場は到底判断しきれないということです。患者さんのご病状や精神的な不安、医療機関側とのこれまでの関係性、要求の真の目的、そして今日に至るまでの経緯など、これらは事案ごとにまったく異なります。
同じ「受付で大声を出す」という行為であったとしても、それが単なる体調不良や待ち時間への一時的な不満なのか、それとも過去の診療内容に対する根深い怒りなのかによって、組織として果たすべき対応の範囲は大きく変わってきます。ここを見誤ると、現場は二つの対極的な失敗パターンに陥りやすくなります。
一つ目は、本来は早く切り上げてよい場面であるにもかかわらず、大声や理不尽な要求に際限なく付き合ってしまい、結果として同じ窓口の同じ職員ばかりがサンドバッグのように疲弊していくパターンです。労働契約法第5条が定める「安全配慮義務」の観点からも、職員をこうした暴力的な環境に放置することは、経営側の極めて重大な法的リスクとなります。
二つ目はその逆で、本来はしっかりと時間をかけて説明を尽くすべき場面、つまり自院に何らかの落ち度や説明不足がある場面でも、早々に「あの人はクレーマーだ」と決めつけて対話を打ち切り、正当な訴えを持つ患者さんとの信頼関係を決定的に損なってしまうパターンです。この両極端を避け、状況に応じた「適切な対応の広さ」を見極めるための羅針盤となるのが、次にお話しする「ゴムマリ理論」です。
対応の正解は状況で変わる〜私が提唱する「ゴムマリ理論」の全貌
前述したような「対応のしすぎによる疲弊」と「対応不足による関係悪化」を防ぐため、私は独自の判断基準として「ゴムマリ理論」を提唱しています。
ゴムマリ理論とは、患者対応において医療機関という組織が果たすべき「やるべきこと(説明や謝罪、対応にかける時間や人員)」の範囲は、決して一定ではなく、内容や相手との関係、相手の目的、状況、それまでの経緯によって、大きく膨らんだり、逆に小さく縮んだりするという考え方です。手の中にあるゴムマリが、状況に応じてサイズを変える様子をイメージしてください。
例えば、自分の用件だけを理由に、待ち時間の長さについて受付で大声を出して怒鳴り散らすようなケースを考えてみましょう。この場合、医療機関側が抱えるべきゴムマリは「小さく縮む」ことになります。もちろん、最初は丁寧な接遇の態度で対応する必要がありますが、「大きな声を出さないでください、周囲の患者さんも驚かれますし、私たちも怖いです」と明確に伝えれば、それ以上の対応は必須ではありません。大声で次々と投げかけられる一つひとつの理不尽な問いかけに対して、すべて丁寧に答える義務はないのです。「声を荒げれば要求が通る」「大声を出せば順番を早めてもらえる」という誤った前例を作らないことも、病院の安全と秩序を守るための大切な対応の一部です。
一方で、病院側に明らかなミス(予約の二重登録や会計の大きな間違い、あるいは医療安全上の重大なミスやヒヤリハットなど)があった場合はどうでしょうか。この場合は、医療機関側が抱えるゴムマリは「大きく膨らむ」ことになります。ご本人やご家族に対する十二分な説明と誠実な謝罪、今後の治療方針の再確認、そして再発防止策の提示など、組織として尽くすべき対応の範囲は非常に広くなります。
しかし、ここで非常に重要なポイントがあります。それは「膨らんだゴムマリにも限界がある」ということです。十分な説明と謝罪を尽くし、組織としてできる限りの対応を行ったにもかかわらず、その一つのミスに延々と乗じて同じ金銭的要求を繰り返したり、ミスとはまったく無関係の別の要求を持ち出してきたりする場合、限界まで膨らんだゴムマリは再び小さく縮みます。ここから先は、正当なクレームへの対応ではなく、職員の就業環境を著しく悪化させる行為として、明確にカスハラ対策へと切り替えるべき段階となります。
👉 ゴムマリ理論における「対応の限界点(臨界点)」の具体的な見極め方や、さらに詳しいメカニズムについては、こちらの記事で解説しています。あわせてご覧ください。 『【医療安全の新常識】接遇とカスハラ対策を両立させる「ゴムマリ理論」とは?元警察署長が教える臨界点の見極め方』 URL: [https://shibaken-poli.com/2026/05/31/%e3%80%90%e5%8c%bb%e7%99%82%e5%ae%89%e5%85%a8%e3%81%ae%e6%96%b0%e5%b8%b8%e8%ad%98%e3%80%91%e6%8e%a5%e9%81%87%e3%81%a8%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%8f%e3%83%a9%e5%af%be%e7%ad%96%e3%82%92%e4%b8%a1%e7%ab%8b/]
相手の行為を客観的に評価する「フェーズ0から3」の判断基準
ゴムマリ理論が「医療機関側の対応範囲(やるべきこと)」を測る物差しだとすれば、もう一つ現場に不可欠なのが「相手方の行為そのもの」が現在どの段階にあるのかを客観的に測る物差しです。私はこれを、行為者の行動類型に基づく「フェーズ0から3」という4つの段階として整理しています。
フェーズ0:通常のクレーム(接遇の範囲)
この段階は、患者さんが理性的であり、話し方も内容も社会通念から逸脱していない状態です。「先ほどの医師の説明が専門的すぎて分かりにくかった」「なぜこの採血が追加で必要なのか教えてほしい」といった、正当な疑問や要望が該当します。これはクレームというよりもご意見・ご要望に近く、医療機関としては思いやりの心を持って、接遇として丁寧に応対すべき場面です。ここで真摯に耳を傾け対応することで、かえって患者さんとの信頼関係が深まることも多くあります。
フェーズ1:不満・感情の発露(見極めと危機察知の段階)
少しずつ強い口調になり、「対応が遅すぎる、いったいどうなっているんだ、早くしてください」など、言葉に明らかな感情がこもってくる段階です。これも基本的には、ゴムマリ理論でいうところの「やるべきこと」の接遇の範囲内に収まります。
しかし、ここで注意すべき重要なポイントがあります。日本医師会が令和4年(2022年)度に開催した医療安全対策会議の資料等でも指摘されている通り、医療機関の現場においてしばしば不足しがちなのが、この初期段階における「危機察知力の発揮」です。相手の言葉の内容、相手の属性、そして怒りの真の目的を踏まえて、この先さらに事態が悪化する危険性があるのか、それとも現場スタッフの粘り強い接遇対応によって次第に収まっていくものなのかを見極める必要があります。
もし少しでも態度が激化する兆しを感じ取ったならば、その時点から一人で抱え込まず複数人で対応に当たり、しっかりと記録(時系列のメモや、規定に基づいた録音など)をとり始めることが重要です。相手の主張の着地点はどこか、納得するまでにどれくらいの時間を要するのかを見計らう「危機察知力」を組織として発揮しなければなりません。
フェーズ2:暴言威嚇強要型(明確なカスハラ対策への移行)
さらに口調が強まり、精神的あるいは身体的な暴力に該当しうるレベルの暴言へと至る段階です。職員への人格否定、明らかな威圧態度、必要以上の長時間の拘束、「お前は無駄だ、馬鹿か、辞めてしまえ」といった暴言、「今すぐここで土下座して謝罪しろ」「この前言ったことと違うじゃないか、責任をとれ」といった不当な要求などがこれに当たります。
ここまで来ると、もはや接遇の枠組みを超え、明確にカスハラ対策のフェーズに入っています。この段階でもなお、ご病気による一時的な感情の高ぶりやせん妄状態なのか、それともその人自身の人格的な傾向や特定の目的(金銭等)への執着によるものなのかを見極める冷静な判断が求められます。
対応の基本としては、まず相手に是正を促すことです。口頭での注意にとどまらず、あらかじめ院内マニュアルに文書のひな形を準備しておいた上で「文書による注意(警告)」を段階的に使い分けます。乱暴な言葉、人格否定、差別的発言、侮辱、他の患者さんのプライバシー侵害が繰り返される場合には、「そのような言葉遣いや態度を改めていただけなければ、これ以上の診療や対応はお断りせざるを得ません」と明確に伝えます。
ここで多くの医療機関が悩むのが、医師法第19条第1項が定める「応召義務(診療を拒んではならない義務)」との兼ね合いです。しかし、厚生労働省の通達等でも示されている通り、患者側からの著しい迷惑行為や暴言・暴力があり、医療従事者の安全が確保できない場合や、他の患者への適切な医療提供に支障をきたす場合には、診療をお断りすることは正当な理由として認められます。
また、対応が長引く場合は「あと10分でお話を終わらせていただきます」「本日の対応は30分までとさせていただきます」といった打ち切りの時間の目安をあらかじめ決めて通告しておくことを強くお勧めします。そして絶対に忘れてはならないのが、この段階からは一人のスタッフに抱え込ませるのではなく、事務長や師長など管理者を含めた複数人で対応する「組織的な体制」に完全に切り替えるということです。
フェーズ3:犯罪的言動(警察連携と管理者主導の最終段階)
客観的に見て、誰の目にも明らかな脅迫行為、SNSやインターネット掲示板への悪質な名誉毀損の書き込み、院内での無断撮影やプライバシー侵害、そして「殴られたいのか」「夜道に気をつけろよ」「納得するまで絶対に帰らないぞ」といった、極めて犯罪性の高い言動に至る段階です。
何度注意しても態度が改まらない、現場のスタッフが自身の身体への危険を現実的に感じている、相手が激高しておりもはや言葉による対話が成り立たない。これらのいずれかに該当すれば、迷わず「110番通報」を検討すべき最終段階です。刑法上の「威力業務妨害罪(第234条)」や、退去を求めても居座る場合の「不退去罪(第130条)」などが成立する可能性が極めて高い状態です。
このフェーズにおいては、通報するかどうかの判断を現場の受付職員や若手看護師に委ねてはいけません。事前に定めたルールに則り、院長や事務長などの管理者主導で、組織として毅然とした対応へと即座に切り替える必要があります。
「やるべきことをやる」の先にある法的な視点と「要保護性」
ゴムマリ理論で対応の幅を調整し、フェーズ0から3で相手の行動を見極める。これらを突き詰めれば、「医療機関としてやるべきことをしっかりとやる」という一言に集約されます。
しかし、これは決して精神論や単なる理想論ではありません。医療機関の日常業務が、悪質なクレームから業務妨害等の「刑事上の保護(警察の介入)」や「民事上の保護(弁護士の介入)」をスムーズに受けられるかどうかは、日頃から善管注意義務に基づいた対応をどこまで誠実に尽くしていたかに関わってきます。
つまり、いざ警察や裁判所に対して「当院としては説明も尽くし、十分にやるべきことをやっています。それでもこのような不当な要求を受けており、業務が著しく妨害されています」と堂々と主張できる「要保護性(法的に保護されるべき状態にあること)」の有無を決定づける、極めて実務的かつ法的な論点なのです。
だからこそ、フェーズが2や3に上がった段階では、決して院内だけで問題を抱え込まず、警察、弁護士、地域の医師会といった外部機関との早期連携を視野に入れておく必要があります。フェーズ3の犯罪的言動に至れば警察への通報が最も現実的な選択肢になりますし、フェーズ2の段階から顧問弁護士に事実経過を共有しておけば、文書での注意や診療の打ち切りといった難しい判断について、確かな法的な裏付けを得ながら自信を持って進めることができます。
また、地域の医師会は、こうした対応の「型」を各病院の院内マニュアルに落とし込む際の心強い相談先となります。対応が後手に回り、現場のスタッフが限界を迎えてから慌てて外部に助けを求めることこそ、組織にとって最もリスクの高いパターンだと私はこれまでの経験から強く感じています。
属人化を防ぎ、大切な組織を守るためのマニュアル化のすすめ
ゴムマリ理論(自院が対応すべき範囲の伸縮)と、フェーズ0から3(相手の行為の客観的評価)という二つの物差しを重ね合わせて理解しておくと、現場で対応にあたるスタッフの判断はぐっと楽になります。
「今、目の前で怒っているこの人は、どのフェーズにいるのか」 「今この場面で、私たちが抱えるゴムマリはどこまで膨らませるべきか、あるいはどこで縮めるべきか」
この二つの軸で状況を立体的に捉えることで、個人の感覚や経験値に頼らない、より適正かつ効果的な組織的対応が可能になります。そして、この各段階における具体的な措置(誰に報告するか、何分で打ち切るか、どの書面を出すか)をあらかじめ院内マニュアルに落とし込んでおけば、現場で即座に判断がつかないような突発的な場面であっても、迷わず動ける実務的な指針となります。
クレーム対応やハラスメント対策の難しさは、「相手の行為だけ」を見ていても、「こちらの対応マニュアルだけ」を見ていても測りきれないところにあります。相手の行為類型がどのフェーズにあるかを冷静に見極めながら、こちらが果たすべき対応の範囲を状況に応じて柔軟に、しかし決してブレない芯を持って調整していく。この仕組みを現場の隅々にまで浸透させることが、医療機関におけるカスハラ対策の実効性を大きく左右することになります。
まとめと結び
本ブログでは、医療現場を疲弊させるハラスメントへの対抗策として、対応範囲を見極める「ゴムマリ理論」と、相手の行動を客観視する「フェーズ0から3」の判断基準について詳しく解説いたしました。一律の対応ではなく、状況に応じた柔軟かつ毅然とした仕組みづくりが、大切なスタッフを守り、ひいては安全な医療環境を守る最大の盾となります。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の医療安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院やクリニックで数多くの相談対応や、現場のスタッフに向けた研修・講話を行ってまいりました。もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、ご担当者様が個別でお悩みや重圧を抱えられている場合もあるかと存じます。秘密は厳守いたしますので、どうぞご安心してお気軽にお声がけください。
日々患者さんと真摯に向き合いながら、日本の医療現場を最前線で支えていらっしゃる医療従事者の皆さまに、心からの敬意を表します。今日もお疲れ様です。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
