はじめに:医療現場を悩ませる「理不尽な要求」と警察連携の壁
近年、様々な業界で問題となっている顧客からの著しい迷惑行為、いわゆる「カスハラ(カスタマーハラスメント)」ですが、医療現場においても例外ではありません。医療機関におけるカスハラは、特に「ペイハラ(ペイシェントハラスメント)」と呼ばれ、現場の最前線で働く医療従事者を深く悩ませ、時に心身を削り取るような深刻な問題となっています。
先日、日本医師会が令和4年4月の会議で示した資料を目にする機会がありました。そこには、医療施設内で粗暴な言動をする患者や、頻回にクレーム電話をかけてくる患者への対応について、非常に悩ましい現状が報告されていました。医療機関が警察や保健所、市役所等に相談し支援を求めても、「民事不介入」や「事件には至っていない」ことを理由に、十分な対応をしてもらえないケースが一部にあるというのです。
一方で、警察庁からは「刑事法令に抵触する行為が疑われる場合には、従来から厳正に対処している」旨の報告があったとされています。ここに、医療機関と警察との間にある「認識のギャップ」が浮き彫りになっています。
本ブログでは、このギャップをどう埋め、医療現場の安全をどう守っていくべきかについて解説します。結論から申し上げますと、警察との連携に大がかりな協定や特別な手続きは必ずしも必要ありません。このブログを読むことで、明日からすぐに実践できる具体的な警察との関係構築の仕組みづくりと、私が実際にサポートした医療機関で起きている「驚くべき変化の実例」がお分かりいただけるはずです。
連携の現在地をどう読み解くか
先ほどの日本医師会の資料をさらに読み進めると、興味深い数字が出てきます。「医療機関からの相談について、警察と連携をとっているか」という問いに対し、「連携をおこなっている」と回答した医師会は全体の21%にとどまりました。
一方、連携を行っていない理由としては、「現状として、警察に連携を求めるような事例がないため」「医師会を介さず、医療機関から警察に直接相談する仕組みとしているため」といった声が挙げられています。
この「21%」という数字を、皆さんはどう受け止めるでしょうか。私は決して「警察との連携が進んでいない」という悲観的な話として読むべきではないと考えています。
むしろ注目すべきは、連携している医師会が着実に存在し、その内容が「情報共有」「最寄りの交番や警察への巡回強化の依頼」「警察の介入が必要と感じた事例についての意見交換」といった、極めて実務的なレベルにまで踏み込んでいるという事実です。
連携とは、問題が起きてから突然できあがるものではありません。日頃からの小さな積み重ねの結果として、いざという緊急時に初めて機能するものなのです。
👉令和4年7月、日本医師会において実施された会議資料「医療従事者の安全を確保するための対策について」https://www.med.or.jp/dl-med/teireikaiken/20220713_31.pdf
最優先すべき大前提「身の危険を感じたら迷わず110番」
具体的な連携の仕組みづくりをお話しする前に、私が医療機関の皆さまに指導する際、必ず最初にお伝えしている「大前提」があります。
それは、自分たちでコントロールできない状況に陥ったとき、著しい不安や身の危険を感じた場合には、迷わず110番通報をしていただきたいということです。
医療従事者の方々は非常に責任感が強く、「これくらいで警察を呼んでいいのだろうか」「患者さんを警察に通報するようなことは、医療者としてどうなのか」と躊躇してしまう傾向があります。しかし、その躊躇が初動対応の遅れや被害の拡大、あるいは現場スタッフの心身の深い疲弊を招きます。
事業主(病院側)には、従業員(職員)が安全で健康に働ける環境を整える「安全配慮義務」という法律上の明確な責任があります。また、労働施策総合推進法の文脈においても、ハラスメントから職員を守ることは強く求められています。「危ない時はすぐに警察を呼ぶ」という原則を、経営層から現場の職員全員に至るまで共通認識として持っておくことが、すべての安全対策の確固たる土台となります。
「民事不介入」の壁と現場の切迫感のギャップ
ここで立ちはだかるのが、前述した「警察に相談しても動いてくれなかった」という一部の声です。これには、責める側・責められる側という単純な図式では捉えきれない構造的な理由があります。
警察側には当然、組織として動くための一定の法律的な基準があります。犯罪を構成する要件を満たしているか、証拠は十分かといった判断です。一方で医療現場は、患者さんとの関係性を維持しながら診療を続けなければならないという特有の事情を抱えています。そのため、「暴行や傷害など、明確な事件とまでは言えないが、大声で威圧され、明らかに業務の限度を超えている」というグレーゾーンのストレスを抱え込みやすい立場にあります。
事件性の有無という警察の判断基準と、医療現場が日々感じている切迫感。この間には、どうしてもギャップが生まれてしまいます。では、このギャップをどう埋めればよいのでしょうか。それこそが、日頃からの「顔の見える関係」づくりなのです。
実例が証明する「挨拶」の効果:あるクリニックの劇的な変化
大規模な病院であれば、医師会を通じた組織的な連携体制を構築する余地もあるでしょう。しかし、日常の診療に追われる街のクリニックにとって、警察署と定期的な情報交換の場を持つことは、人手や時間の面から見ても非常に厳しいのが現実です。
では、クリニックには何もできないのかというと、決してそうではありません。私が強くお勧めしているのは、管轄の交番に「病院からご挨拶に伺いました」という形で立ち寄るという行動です。
実際に私が相談を受け、あるハラスメント患者の対応に深く悩んでいたクリニックの事例をご紹介します。
このクリニックでは、私の助言をもとに、警察との連携構築に踏み出しました。具体的には、年に2回ほどのペースで、管轄の交番へ定期的に足を運ぶようにしたのです。用件は特別な相談ではなく、「いつも地域の安全を守っていただきありがとうございます。近隣で診療しております」というご挨拶です。
これまで警察と関わりを持ったことのなかったこのクリニックですが、定期的に訪問を続けるうち、驚くべき変化が起きました。交番の警察官にすっかり顔を覚えてもらい、訪問すると「最近、病院のほうは異常ないですか?」「いつも大変ですね」と、警察のほうから温かい声をかけてもらえるようになったのです。
さらに決定打となったのは、警察官自身の口から「いつでも心配な時は相談してくださいね」「大変な時は、遠慮せずにすぐ110番してください」という言葉を直接いただいたことでした。
この言葉が、現場のスタッフにどれほどの勇気を与えたか計り知れません。「いざとなったら110番をしていいんだ」「私たちの後ろには警察がいてくれるんだ」という圧倒的な安心感(心理的安全性)が生まれました。その結果、理不尽な要求や威圧的な態度をとるハラスメント患者に対しても、声や態度が萎縮することなく、「当院ではそのような要求には応じられません」と、毅然とした対応ができるようになったのです。
これこそが、私がクリニックにお勧めしている最も現実的で、かつ最大の効果を生む「警察連携」です。特別な体制も、仰々しい協定書も必要ありません。交番への地道な挨拶の積み重ねが、スタッフの心を守り、強い組織を作るのです。
👉「いざという時は警察が守ってくれる」という裏付けを持った上で、即110番には至らないグレーゾーンの不当要求や検査拒否に対して、現場で具体的にどう毅然と対応していくべきか。その実践的なノウハウについては以下の記事で詳しく解説しています。あわせてご覧ください。【治療非協力の落とし穴】検査を拒む患者への正しいペイハラ対応と法的リスク管理
[https://shibaken-poli.com/2026/08/20/%e3%80%90%e6%b2%bb%e7%99%82%e9%9d%9e%e5%8d%94%e5%8a%9b%e3%81%ae%e8%90%bd%e3%81%a8%e3%81%97%e7%a9%b4%e3%80%91%e6%a4%9c%e6%9f%bb%e3%82%92%e6%8b%92%e3%82%80%e6%82%a3%e8%80%85%e3%81%b8%e3%81%ae%e6%ad%a3/]
中規模・大規模病院の実例:防犯訓練と幹部への挨拶が生む強固な危機管理
病床数がある程度以上の中規模・大規模病院になると、交番への挨拶に加えて、もう一歩踏み込んだ取り組みが可能になり、さらなる効果を生み出します。
こちらも私が実際にサポートし、成果を上げている病院の実例です。
この病院でも過去にハラスメント事案があり、今後の対策に苦慮していました。そこで、交番への挨拶に加え、管轄の警察署にも足を運ぶように助言しました。具体的には、年に1回ないし2回、警察署の「地域課」や「生活安全課」の幹部の方々へご挨拶に伺うという取り組みです。
ここで重要なポイントがあります。警察署の中で院内暴力やクレーム対応の事前相談窓口となるのは、一般的に「生活安全課」です。しかし、実際に皆さんが110番通報をした際、現場に真っ先に駆けつけるのは、「地域課」に所属する交番の警察官や、警察署の当直勤務員なのです。そのため、生活安全課だけでなく、地域課にも顔を出しておくことが非常に効果的になります。
この病院では、幹部へのご挨拶を続けるとともに、不審者対応訓練や110番通報訓練といった防犯訓練の実施についても、警察署に直接相談に乗ってもらうようになりました。
最初は「警察署に挨拶に行くなんて、これまで考えたこともなかった」「敷居が高く感じる」と戸惑っていた病院スタッフですが、この取り組みを始めたことで、警察署や交番との連携が劇的に密接になりました。
担当の警察官の方々と何度も協議や打ち合わせを重ねる過程そのものが、事務的な関係を超えた「顔の見える信頼関係」を構築していったのです。現在では、ペイハラ対策の一環としてだけでなく、病院全体の「危機管理の根幹」として、この警察連携が非常に大きな効果をもたらしています。
「信頼の積立て」が緊急時の対応をスムーズにする
私はこうした日頃の交番への挨拶や、警察署への訓練依頼の積み重ねを、いつも「信頼の積立て」という言葉で表現しています。
銀行の預金と同じように、平時にコツコツと積み立てておいた信頼は、緊急時に一気に引き出すことができます。逆に、普段は全く何の付き合いもない状態で、トラブルが起きた時だけ突然「助けてください」と駆け込んでも、相手からすればどこの誰かも、どういう事情を抱えた病院かも分かりません。状況把握に時間がかかり、結果として初動が遅れたり、事件性の判断に迷いが生じてしまうのは、ある意味で仕方のないことなのです。
継続的にこの「信頼の積立て」を行っていくことで、事前の相談が劇的にしやすくなります。「実は今、こういう要求をしてくる患者さんがいて、今後こういう対応を考えているのですが」といった事前相談ができる関係性があれば、実際に事案が発生した際の警察の立ち上がりスピードや、対応方針の共有は驚くほどスムーズになります。
まとめ:無理のない範囲で、今日からできる一歩を
警察との連携というと、どうしても大がかりな組織的対応を思い浮かべて尻込みしてしまう方も多いでしょう。しかし、今回ご紹介した実例からもお分かりいただけるように、クリニックであれば交番への挨拶回り、中規模・大規模病院であれば幹部へのご挨拶や防犯訓練の相談といった、日常の延長線上でできることの積み重ねが、いざという時の対応力を決定づけます。
「警察が味方についている」という確かな安心感は、現場スタッフの毅然とした対応を引き出し、結果的にハラスメントを未然に防ぐ強力な防波堤となります。まずは自院の規模と体制に合わせて、無理のない範囲でできることから始めてみてください。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、担当者が個別でお悩みの場合もあるかと思いますが、ご安心してお気軽にお声がけください。
本日も最後までブログをお読みいただき、ありがとうございました。日々患者さんと向き合いながら、こうした安全対策にも心を配ってくださっている現場の皆さまに、心より敬意を表します。今日もお疲れ様です。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
