病院やクリニックなどの医療現場において、患者さんとの最初の接点となるのが「電話」です。しかし今、この電話窓口が、医療従事者を深く傷つけ、疲弊させる「もう一つの過酷な現場」になっていることをご存知でしょうか。
医療機関におけるハラスメントは、厚生労働省などの公式な文脈では「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」と呼ばれます。一方で、社会一般や労働施策総合推進法などの法的な文脈では「カスタマーハラスメント(カスハラ)」として広く認知されています。本ブログでは、検索等でお悩みの方がこの情報に辿り着きやすいよう、一般的な「カスハラ」という言葉も交えながら、医療現場特有の「ペイハラ」の深い実態と、その具体的な解決策について解説していきます。
対面の場では決して見せない攻撃性を、電話口でだけ剥き出しにする相手に対し、現場の職員はどのように立ち向かえばよいのか。そして組織は、最前線で受話器を握るスタッフをどう守るべきなのか。
本ブログを読むことで、電話という見えない密室で起きるハラスメントの構造と、現場の負担を劇的に減らすための仕組みづくり、そして法的根拠に基づいた毅然とした対応策を網羅的に知ることができます。
診察室では「模範的な患者」が、電話口で豹変する理由
とある病院で、こんな出来事がありました。 ある女性の患者さんは、診察室で医師の前に座ると、いつも素直で物腰の柔らかい、いわゆる「模範的な患者」として知られていました。ところが、予約の電話などで受付事務職員や看護師が応対すると、まったく違う顔を見せるのです。
希望する日時に予約が取れないと分かった途端、極めてきつい口調になり、「前はなんとかしてくれたじゃないか」「融通が利かないのか」と過去の対応を持ち出して、電話口の職員を何十分も長時間追い詰めます。
なぜ、対面と電話でこれほどまでに態度が変わるのでしょうか。それは、電話という媒体が持つ特殊な構造に原因があります。対面のクレーム対応であれば、周囲の目もあり、複数の職員で連携して受け止めることができます。しかし電話は、受話器を取った瞬間、その職員はほぼ確実に「単独対応」を強いられます。
相手の姿が見えない分、こちらの表情や物腰で場の空気を和らげることもできず、言葉だけがすべてになります。この「一人で受け止めるしかない」という孤立した構造こそが、電話という接点を対面以上に厳しい現場にしているのです。
また、相手の顔が見えないという「匿名性への安心感」が、攻撃的な言動のハードルを下げてしまいます。さらに、予約が取れないといった「今この瞬間」の不満が声のトーンに直結しやすいことや、医療機関側の「患者さんに寄り添おうとする丁寧な姿勢」を、要求を通すための弱みや取っ掛かりとして悪用する人が一定数存在することも、電話カスハラを助長する大きな要因です。
録音アナウンスは「ポーズ」ではなく法律上の義務である
先ほどの病院には、当時まだ電話の録音機能がついていませんでした。しかし、「この電話は医療サービス向上のため録音しています」というアナウンスを流し、実際に通話を録音するシステムを導入した途端、状況は目に見えて変わりました。
例の女性患者さんの言い方から高圧的な調子が完全に消え、通話時間も以前とは比べものにならないほど短くなったのです。
同様の仕組みを導入した大規模病院の職員に話を聞いても、「理不尽な要求や、長電話による不当な拘束は明らかに減った」という声が返ってきます。私はさまざまな研修や指導の場で「電話には、録音設備を備え付け、必ず録音アナウンスを入れなさい」とお伝えしてきましたが、現時点でハラスメントの発生があまりないという医療機関であっても、強力な予防対策として絶対に導入すべき仕組みです。
ここで一つ、強く強調しておきたいことがあります。冒頭の録音アナウンスは、相手を牽制するための「単なるポーズ」ではありません。これは法律に基づいた正当な手続きです。
公的な根拠となるのが、「個人情報の保護に関する法律(個人情報保護法)第21条第1項」です。同項では、次のように定められています。
「個人情報取扱事業者は、個人情報を取得した場合は、あらかじめその利用目的を公表している場合を除き、速やかに、その利用目的を、本人に通知し、又は公表しなければならない。」
平たく言えば、「相手から個人情報を取得するときは、あらかじめ利用目的を公表しておくか、電話口などで本人に直接知らせなければならない」という法律上の義務です。電話をかけてきた患者さんから名前や症状などの個人情報を取得する以上、通話冒頭のアナウンスで利用目的を「通知」することは、正当かつ必須の行為なのです。
導入する際は、ただ録音している旨を伝えるだけでなく、この個人情報保護法第21条第1項の趣旨に沿った、適切な目的の説明(医療安全管理やサービス向上のため等)が含まれているかを必ず確認してください。 (※本年2月26日付の厚生労働省の関連通知についても、各医療機関でご参照いただき、適切な運用にお役立てください)
電話対応で想定される「4つのカスハラ類型」
私はこれまで、医療機関における数多くの電話対応トラブルの相談を受けてきました。程度の差こそあれ、多くの病院やクリニックが電話によるカスハラ(ペイハラ)で職場環境を害されています。これらの悪質な言動は、大きく次の4つの類型に整理できます。
暴言・威嚇・強要型
大声を出す、人格を否定する、差別的な発言をする、プライバシーを侵害する、名誉毀損や侮辱に当たる言葉を投げつけるタイプです。これらは裁判においても違法・不当と認められやすい、極めて悪質な言動です。
患者権威・不当要求型
「患者の立場なんだから責任を取れ」「誠意を見せろ」といった形で、医療機関として到底応じられない要求を突きつけてくるタイプです。十分な説明を受けてもなお納得せず、不当な要求を執拗に繰り返します。
反復継続・時間拘束型
最初はちょっとした苦情の電話であったはずが、説明を受けるとまた別の論点や過去の些細な不満を持ち出し、同じ内容を堂々巡りさせて電話を長時間拘束するタイプです。他の患者さんへの対応や本来の業務に多大な支障をきたします。
セクハラ・わいせつ型
電話ならではの陰湿な類型です。相手が特定しづらいことを悪用し、女性職員などに対して性的な言動や不快な質問を投げかけます。特に夜間の電話受付などで発生しやすい傾向があります。
危険な「上を出せ」要求への対応と37年の経験則
これらのハラスメントに対し、現場の職員はどのように対応すべきでしょうか。 暴言や侮辱に対しては、「そのような言い方をされると怖いと感じます」と自分の主観的な受け止めを率直に伝えたうえで、「不適切な言動を是正していただけなければ、対応できません」と毅然と意思表示を行うことが基本です。
しかし、現場が最も苦慮するのが「お前じゃ話にならん、上を出せ」「院長を出せ」という要求です。
一般的なクレーム対応のマニュアルでは、「現場で手に負えなくなったら責任者に交代する」という手法がよく紹介されます。しかし、相手が悪質なハラスメント行為者である場合、この定番手法を安易に当てはめるのは極めて危険です。
私は警察の刑事部門で37年間、数多くの反社会的な人間やその取り巻き、いわゆるアウトローたちと正面から対峙してきました。その経験則から申し上げると、「上を出せ」という要求は、彼らにとって使い慣れた「常套手段の型」に過ぎません。
実際に責任者へ電話を代わったところで、そこで冷静な話し合いができることなどほとんど期待できません。むしろ、責任者が電話に出るという行為そのものが、相手にとっては「自分が強い態度に出たから、要求に見合う立場の人間を引きずり出せた」という成功体験になり、こちらが一段階譲歩したことを宣言してしまう結果になるのです。
安易な交代は、相手に「この人をさらに説得・恫喝すれば、また次の上が出てくるかもしれない」という誤った期待を抱かせ、さらに「お前じゃ話にならん、院長を出せ」ということになります。電話の相手を自分がコントロールできているという満足感そのものが目的化し、事態はさらに悪化します。
交代する前に、まずは現場の職員自身が正論に基づいた説明を、毅然とした態度で尽くすことが鉄則です。過度なへりくだりは、次の要求を招く呼び水になります。
どうしても職員の心身の負担が限界に達し、当事者を守るために交代する場合は、代わった責任者は絶対に「個人の裁量」で話をしてはいけません。「これは病院としての考えです」「院長の方針として組織としてお伝えしています」と、組織の統一された結論として突っぱねることが不可欠です。電話での対応で自信をもって、「これは病院としての方針です」と突然言えないよと考えられる方もいるかもしれません。そのためには平素からの一体となった情報共有と組織的対応なのです。
現場任せにしない「切電マニュアル」という組織の盾
電話は単独で受け止めるしかない「密室」です。だからこそ、対応の判断を現場のスタッフ個人の裁量に委ねる「現場任せ」は、安全配慮義務の観点からも絶対に避けるべきです。
そこで必要になるのが、病院としての明確な方針、すなわち電話を切るための「切電(せつでん)マニュアル」の策定です。先ほどの4類型をふまえ、たとえば次のような具体的な基準をあらかじめ明文化しておきます。
- 適切な説明を尽くしているにもかかわらず、同じ要求を15分以上繰り返す場合
- 侮辱や暴言に対し注意喚起を行っても、同種の不適切な言動が続く場合
- 説明を受け入れず、「責任者や院長を出せ」という立場の追及そのものが目的化している場合
- 人格否定、侮辱、差別、プライバシー侵害等に関する言動を行い続ける場合
等々、これらの基準に該当した場合、電話対応にあたる職員が「当院の切電マニュアルに基づき、ハラスメントに当たると判断しますので、これでお電話を切らせていただきます」と宣言し、自らの判断で通話を終了できる「権限」を明確に与えておくのです。これを組織のルールとして確立しておくことが、スタッフの心を守る最強の盾になります。
また、わいせつ電話や、目的のない長時間の反復電話に対しては、通話を切断したうえで「着信拒否」の措置を取ることも有効な防衛策です。これも切電マニュアルの中に運用ルールとして組み込んでおきましょう。
最終手段としての110番通報をためらわない
電話によるカスハラは、身体への直接的な暴力こそありませんが、一人の職員が長時間拘束されることで、救えるはずの命に関わる業務が滞るという、極めて深刻な「業務妨害」を引き起こします。
もはや病院側のコントロールでは収拾がつかない状態になった場合や、暴言の中に「殺すぞ」「ネットにばらまくぞ」といった脅迫的な文言が含まれていた場合は、決してためらわずに別の電話回線から110番通報を行ってください。
通報の際には、「対応を尽くしてもなお解決せず、他の患者様の対応など本来の業務に著しい支障が出ており、業務妨害に当たると思います」と明確に伝えてください。また、脅迫的な言動があった場合は「電話ではあるものの、私は名乗って対応しており、身の危険を感じています」と警察に伝達することが重要です。
基本は面前対応と同じく毅然とした態度で臨むこと。そして、いざという時は警察という外部機関を頼る選択肢を持っておくこと。この両輪が、確固たるリスクマネジメントに繋がります。
👉 いざという時、警察とスムーズに連携し、事態を動かすための具体的な「通報のコツ」については、こちらの記事で詳しく解説しています。自力での解決が限界を迎える前に、ぜひ合わせてお読みください。 【限界を迎える前に】なぜ医療従事者は通報できないのか?警察を動かす「伝え方」の正解 [https://shibaken-poli.com/2026/08/21/%e3%80%90%e9%99%90%e7%95%8c%e3%82%92%e8%bf%8e%e3%81%88%e3%82%8b%e5%89%8d%e3%81%ab%e3%80%91%e3%81%aa%e3%81%9c%e5%8c%bb%e7%99%82%e5%be%93%e4%ba%8b%e8%80%85%e3%81%af%e9%80%9a%e5%a0%b1%e3%81%a7%e3%81%8d/]
まとめと結び
電話は、患者さんと医療機関をつなぐ大切な命綱であると同時に、職員が一人で矢面に立たされる「もう一つの現場」です。 録音アナウンスの適切な導入、4つのハラスメント類型に応じた初期対応、安易な責任者交代の禁止、そして何より現場任せにしない「切電マニュアル」の策定。この仕組みを揃えることで、初めて組織として職員を守り抜くことができます。まだ着手できていない部分があれば、できるところから一つずつ、方針として明文化し、実行に移していただきたいと思います。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護専門学校の講師や福岡市医師会の医療安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで、ご依頼に応じて市内の医療機関で数多くの相談対応や研修、講話を行ってまいりました。
もし組織の安全管理やハラスメント対策の仕組みづくりでお困りのことや、具体的なご相談になりたいことがございましたら、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までお声がけください。また、現場の担当者様が「誰にも言えずに個別でお悩み」というケースも多く見受けられますが、どうかご安心してお気軽にご連絡ください。
本日も最後までブログをお読みいただき、誠にありがとうございます。日々患者さんと向き合いながら、見えないところで職員を守るための工夫を重ねておられる医療現場の皆さまに、心からの敬意を表します。今日もお疲れ様です。
【事案分析と解決の設計士:柴田 建一(シバケン)】
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
