【経験の罠とリスク管理】京大病院の手術ミスから学ぶ、医療事故とカスハラを未然に防ぐ組織体制

目次

導入:日常化する業務に潜む落とし穴と、現場を守るための処方箋

「経験豊富な専門医が執刀するなら、きっと大丈夫」。おそらく患者さんとご家族もそう信じて、京都大学医学部附属病院という国内最高峰の医療機関に大切な命を委ねたのだと思います。その信頼が、あまりにも大きな形で裏切られてしまった今回の報道に接し、私はまずそのことに胸が痛みました。

手術前までは普通に生活を送っていたという一人の女性の人生が、たった一度の手術で一変してしまった。被害に遭われた患者さんとご家族の無念は計り知れません。

同時に、医療の最前線で日々奮闘されている皆様におかれましても、このニュースに少なからず動揺を覚えたのではないでしょうか。日夜、患者さんの命と健康に向き合うプレッシャーは、私の想像を絶するものがあると思います。今日もお疲れ様です。

本題に入る前に、一つあらかじめお断りをしておきます。私は医師のような医学・臨床の専門家ではないため、今回の手術における医学的な判断や手技の是非について論じる立場にはありません。また、何か特別な内部の調査資料などを直接確認したわけではなく、あくまでインターネット上で誰もが閲覧できる記者会見の配信記事などを読んだ上での個人的な見解に基づいています。

事実関係の詳細を完全に把握できているわけではないため、本件における法的な「予見可能性」や「結果回避可能性」、あるいは具体的な「注意義務違反」の有無といった法的評価について、私がこの場で言及し判断することはできません。このブログを読むことで皆様にお伝えしたいのは、特定の医師や病院を批判することでは決してありません。

ただ、一連の報道に接する中で、リスクマネジメントや組織のガバナンスという観点から、私が元警察署長として数多くの事件と向き合ってきた経験や、現在、福岡市医師会の医療安全対策支援アドバイザーとして数多くの医療機関から相談を受けてきた知見と重なる部分が非常に大きいと感じたのです。

誰の中にも潜む「経験による思い込み(確証バイアス)」の恐ろしさと、それが引き起こす事故、さらには近年医療現場を悩ませている患者からのカスハラ(カスタマーハラスメント)の根本的なメカニズムには、実は密接な共通点があります。

本ブログでは、現場の最前線で働く皆様が萎縮せずに患者さんと向き合うための「一件入魂」の心構えと、組織としての具体的な解決策をお伝えします。

経験豊富なベテランほど陥りやすい「二度の警告」の見落とし

2026年8月7日、京都大学医学部附属病院が記者会見を開き、同院で起きた重大な医療事故を公表しました。同年7月末に行われた50代女性患者の脳腫瘍(小脳橋角部腫瘍)摘出の開頭手術において、執刀医が誤って正常な部位を切除し、呼吸などをつかさどる脳幹まで傷つけてしまったという事案です。

報道や会見の記録によれば、執刀したのは20年以上のキャリアを持ち、同じ部位の手術を100件以上手がけてきた40代のベテラン脳神経外科医でした。ここで私が特に重く受け止めたのは、手術中の迅速病理診断という客観的な検査で「腫瘍ではない」という結果が、一度ならず二度も示されていたという事実です。

一度目は検体の取り方の問題だと考えたとしても、二度目も同じ結果が出た時点で、なぜ立ち止まれなかったのか。この問いが、今回の報道を読んだ多くの方の頭を離れないのではないでしょうか。会見において診療科長は「執刀医の判断ミスや思い込みがあったのではないか」と述べており、有識者たちはこれを典型的な確証バイアスによるものと分析しています。

確証バイアスと「経験の逆説」の恐ろしさ

確証バイアスとは、自分の見立てや直感が正しいと信じたい気持ちが強いほど、それを裏付ける情報だけを拾い上げ、反する客観的データを例外やエラーとして処理してしまう心理的な癖のことです。

これは決して、この執刀医が特別に傲慢だったから起きたわけではありません。むしろ、真面目に懸命に働き、経験を積み重ねてきた優秀なプロフェッショナルだからこそ陥る「経験の逆説」です。経験を積むほど、「これまでこのやり方で大丈夫だった」「自分の肉眼所見は間違いない」という成功体験が積み重なり、目の前の状況を虚心坦懐に見る力がかえって鈍ってしまうのです。

同じ種類の手術や診療を何十件、何百件とこなすうちに、それが自分にとっての日常になり、最初の頃に持っていた極度の緊張感や一件ごとへの没入感が薄れていく。慣れによる意識の希薄化は、人間である以上、誰にでも起こり得る非常に恐ろしい課題です。

チーム医療における「声を上げる」ことの難しさ

さらに、今回の事案では組織の構造的な課題も浮き彫りになっています。報道によれば、手術の過程で違和感を覚えたスタッフもいたと思われるものの、チームで最も場数を踏んでいる執刀医の判断を覆すのは難しかったという趣旨の関係者コメントが紹介されていました。

皆さんの職場にも思い当たる場面はないでしょうか。「おかしいな」と感じながらも、経験豊富な上司や先輩の判断に声を上げきれなかった経験は、決して医療現場だけのものではないはずです。どれほど最新の医療機器を揃え、優秀な人材を集めても、「異論を唱えやすい空気(心理的安全性)」がチーム内に構築されていなければ、最後の安全装置は機能しません。

元警察署長として振り返る「一件入魂」の心構え

偉そうなことを申し上げていますが、私自身も例外ではありません。私は警察官として現職中、自らが逮捕に関わった事案だけでも千数百件ほど、相談対応なども含めた担当事件全体では、千件から二千件規模の数に関わってきました。

これだけの数に向き合う中で、常に自分に言い聞かせていたのは、「一件一件について、被疑者がどのような経緯で行為に至ったのか、被害者がどのような心情でいるのかまで丁寧に思いを馳せ、それを踏まえて判断する」ということでした。

しかし正直に告白すれば、その中には、同種の事件だからという理由で、いわば機械的な流れ作業の中で対応してしまっていた場面がゼロだったとは言い切れません。取り調べの最中に、被疑者の経緯や被害者の心情に改めて深く触れ、「ああ、これはよくある事件などではなく、もっと慎重に、丁寧に扱うべき事案だったのではないか」とはっと気づかされ、自分の中で猛省したことは一度や二度ではありませんでした。

件数をこなすことに慣れ、感覚が麻痺しそうになる自分。それは決して自慢できる話ではなく、苦い記憶として今も私の中に深く刻まれています。

当たり前を当たり前にやることの難しさと「一日一生」

そうした経験から、私は「一件入魂」という言葉を自分自身への強い戒めとしてきました。一件一件の事件や相談を、その都度全力で受け止め、魂を込めて向き合う。自分たちにとっては毎日繰り返すいつもの一件であっても、目の前の当事者にとっては、人生でそう何度も経験するものではない特別な出来事なのだと絶えず言い聞かせることです。

これは、仏教の教えに由来するとされる「一日一生」という考え方にも通じます。今日という一日が自分の一生の始まりであり終わりでもあるという心構えで臨めば、目の前のことをおろそかにはできないという意味合いです。

件数を重ねるほど、初心は試され続けます。どれほど高い志を持って仕事を選んだとしても、日々の激務や慣れの中で志は少しずつ摩耗します。だからこそ、自分の弱さを認めた上で、適宜適切なタイミングで自分で自分の尻を叩き続ける強い意志が必要なのです。

「一件入魂」がカスハラ対策の最大の防御となる

この一件入魂の姿勢、つまり患者さん一人ひとりに正面から真摯に向き合うことは、単なる精神論ではありません。実はこれが、近年医療現場を悩ませているカスハラ、医療業界で言うところのペイシェントハラスメント(ペイハラ)を防ぐ最も確実な土台となるのです。

私が医療機関向けの研修でお伝えしている対策の根幹の一つに、「やるべきことをやる」というものがあります。

法的義務としての「善管注意義務」と信頼構築

医療契約における「善良な管理者としての注意義務(民法第644条)」、つまり専門職として当然に果たすべき注意を尽くすことは、法的な義務です。一般的なリスクマネジメントの観点から言えば、客観的なデータよりも自己の経験を過信して確認を怠るようなことがあれば、この注意義務に違反していると問われるリスクが高まります。

そして何より、患者さんやご家族は、驚くほど敏感に医療従事者の向き合い方を見ています。私自身、プライベートで一人の患者として病院を受診した際や、仕事で数多くの医療機関を訪問する中で、胸がざわつくような場面に出くわしたことが何度かあります。

医師や受付スタッフが極めて事務的な態度であったり、パソコンの画面やカルテから一切目を離さずにこちらの話を適当に聞き流していたり、患者の理解度はお構いなしに自分のペースだけで一方的に話を進めていくような光景です。

その都度、私はこう強く感じてきました。「もし今日、たまたま忙しくて私にだけこういう態度をとってしまったのならまだしも、これが組織の『日常』なのだとしたら、患者側に不信感が募り、いずれ大きなハラスメントが起きてしまうのは必然ではないか」と。

実際、多くのトラブル事案を分析してくると、最初から悪意を持って理不尽な要求をしてくるケースばかりではありません。最初はささいな不安や不満だったものが、医療者側の慣れからくる機械的な対応や、目を見ない作業的なコミュニケーションによって増幅し、最終的に過剰なクレームや暴言という形のハラスメントに発展してしまうケースが非常に多いのです。

初心を忘れず、一件入魂でやるべきことをやる。患者さんの目を見て、魂を込めて対話する。この応対接遇の基本を一人ひとりが徹底することで、患者さんとの間に強固な信頼関係が築かれ、結果としてハラスメントの発生要因を限りなくゼロに近づけることができると私は確信しています。

組織として現場を守るための「仕組みづくり」と外部連携

一方で、医療従事者がどれほど誠心誠意向き合っても、社会通念上許容できない理不尽な要求や、暴言・暴力に及ぶ悪質なハラスメントが存在するのも事実です。ここで重要なのは、個人の一件入魂の努力だけに頼るのではなく、組織として現場のスタッフを守る仕組みづくりです。

厚生労働省は「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」を公表しており、各医療機関に対しても、カスハラに対する基本方針の策定や相談体制の整備を強く求めています。さらに、労働契約法第5条に基づく「安全配慮義務」により、病院側は職員がハラスメントによって心身の健康を害さないよう、職場環境を整える法的な責任を負っています。

👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf

毅然とした対応と「応招義務」の正しい理解

現場の医師や看護師を悩ませる要因の一つに、「どれだけ理不尽な要求をされても、医師法第19条の応招義務(診療に応ずる義務)があるから、治療を拒否できないのではないか」という誤解があります。

しかし、厚生労働省の公式見解でも明確に示されている通り、患者側の暴言・暴力・悪質なクレーム等により、医療者と患者との間の信頼関係が著しく損なわれ、円滑な診療が不可能な状況であれば、それは診療を拒否する「正当な事由」に該当し得るとされています。

「スタッフの安全を脅かす行為には毅然として対応し、必要であれば診療をお断りする」。この方針を経営層が明確に打ち出し、マニュアル化して現場に周知することこそが、スタッフが萎縮せずに質の高い医療を提供し続けるための絶対条件です。「スタッフの安全を脅かす行為には毅然として対応し、必要であれば診療をお断りする」。この方針を経営層が明確に打ち出し、マニュアル化して現場に周知することこそが、スタッフが萎縮せずに質の高い医療を提供し続けるための絶対条件です。👉 悪質なハラスメントから現場を守り、被害を最小限に抑えるための具体的な知恵と工夫について、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。入院病棟などにおける家族等への「面会制限・禁止措置」の有効性についても触れていますので、ぜひ併せてお読みください。 【現場を守る最終手段】医療・介護現場のカスハラを断つ「面会禁止措置」の法的根拠と実務対応 URL:[https://shibaken-poli.com/2026/08/22/%e3%80%90%e7%8f%be%e5%a0%b4%e3%82%92%e5%ae%88%e3%82%8b%e6%9c%80%e7%b5%82%e6%89%8b%e6%ae%b5%e3%80%91%e5%8c%bb%e7%99%82%e3%83%bb%e4%bb%8b%e8%ad%b7%e7%8f%be%e5%a0%b4%e3%81%ae%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%8f/]

抱え込まず、外部の専門機関と早期に連携する

重大な医療事故が発生した際も、悪質な院内トラブルが発生した際も、共通して重要なリスクマネジメントの鉄則があります。それは「内部だけで抱え込まず、早期に外部の知見を入れる」ということです。

今回の京大病院のケースでも、事故発生後、国や京都府、管轄の警察署へ速やかに報告し、外部有識者を含む事故調査委員会を設置したと報じられています。この早期の透明化と外部連携の姿勢は、危機管理の観点から非常に適切な初動です。

ハラスメント対応においても同様です。現場のスタッフや担当者だけで解決しようとせず、警察、弁護士、医師会などの外部専門機関と平時から連携ルートを構築し、「いざとなればすぐに頼る」組織文化を根付かせることが、結果として被害を最小限に食い止める鍵となります。

まとめ:当たり前の積み重ねが最高の医療安全を生む

千件、二千件という対応件数は、プロフェッショナルとしての経験を示すものではありますが、決してそれ自体が誇るべき勲章ではありません。問われているのは、その膨大な数の裏にある、一人ひとりの人生にいかに真摯に向き合い続けられたかという強度の維持です。

経験による確証バイアスの罠に自覚的になり、慣れに流されず一件入魂でやるべきことをやる。そして、万が一のトラブルの際には組織が盾となり、外部機関と連携して現場を守り抜く。この両輪が機能して初めて、患者さんにとっても、医療従事にとっても安心できる環境が実現します。

今回の事故の真相究明が丁寧に進むとともに、被害に遭われた患者さんとご家族へ誠実な対応がなされることを心から願ってやみません。

私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、担当者が個別でお悩みの場合もあるようですのがご安心してお気軽に。

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