医療現場や介護施設において、患者さんや利用者さんからの心無い言葉や理不尽な要求に、日々心をすり減らしている職員の方は少なくないでしょう。本来であれば寄り添い、支援すべき相手から向けられる刃は、働く人々の誇りややりがいを根底から奪い去ってしまいます。
このブログを読むことで、医療機関におけるハラスメント、すなわちペイシェントハラスメント(ペイハラ)から大切な職員と組織を守るための具体的な道筋が見えてきます。日頃、私が研修や講話でお話ししている対策の「7箇条」の中でも、最も重要であり、かつ明日からすぐに始められる「情報共有」の力について、実際の病棟での事例や、私の警察官時代の経験を交えながら深く掘り下げていきます。組織の安全管理に悩む管理者の方々にとって、このブログが現状を打破する確かなヒントになれば幸いです。
医療現場をむしばむカスハラの実態と法的背景
近年、あらゆるサービス業において顧客からの著しい迷惑行為、いわゆるカスタマーハラスメント(カスハラ)が社会問題化しています。厚生労働省が公表している対策マニュアルなどでも示されている通り、企業や組織には従業員を守るための対策が強く求められる時代になりました。労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法)の枠組みの中でも、顧客からのハラスメントに対する体制の整備は、事業主が取り組むべき重要な事項として位置づけられています。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
医療機関や福祉施設においても、この問題は例外ではありません。むしろ、病気や怪我による不安、身体的な苦痛を抱えた患者さんやそのご家族を相手にする医療現場は、感情の行き違いが生じやすく、一般的なサービス業以上にハラスメントが発生しやすい特殊な環境にあると言えます。医療現場におけるカスハラは「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」と呼ばれ、対応を誤れば職員の休職や離職に直結し、結果として地域の医療体制そのものを揺るがしかねない深刻な課題です。
患者さんの不安に寄り添うことは医療従事者の使命ですが、暴言や暴力、理不尽な要求といったハラスメントまでを受け入れる義務はどこにもありません。組織には職員が安全で健康に働ける環境を整える「安全配慮義務」があります。では、具体的にどのようにして職員を守ればよいのでしょうか。その核心となるのが、次にお話しする「情報共有」なのです。
👉 【あわせて読みたい】なぜ法律の指針でも「情報共有」がこれほど重視されているのか? 2026年の法改正に向けた具体的な組織の備えや、多角的な視点から見た情報共有の本質については、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。ぜひご一読ください。 『【法改正を見据えた備え】2026年10月施行の労働施策総合推進法と連携する、医療現場の革新的ペイハラ対策』 (https://shibaken-poli.com/wp-admin/post.php?post=1417&action=edit)
情報共有の欠如が、ハラスメントの最大の「隙」になる
ハラスメント対策において、組織としての方針の明確化、担当者一人に抱え込ませない体制づくり、毅然とした対応など、欠かせない柱はいくつもあります。しかし、それらすべての土台となるのが「情報共有」です。情報共有が機能していなければ、患者さんや利用者さんへの対応は、すべて現場の職員個人の力量に委ねられることになります。
人間である以上、対応のスキルや性格的な向き不向き、得意不得意があるのは当然です。問題は、ハラスメントを行う側が、この「対応のばらつき」を絶対に見逃さないという点です。「なぜあの看護師は要望を聞いてくれたのに、あなたは駄目だと言うのか」と、対応する職員によって受け答えが違うこと、組織としての統一が取れていないことに敏速に気がつき、そこにつけ込んできます。対応のばらつきそのものが、攻撃を正当化する格好の糸口にされてしまうのです。
実は、こうした情報共有の機能不全は、「患者さんへの諦め」よりも、むしろ「組織内部、職員同士の連携に対する諦め」から生じているケースが非常に多いのです。
医療従事者の方であれば、次のような経験や心当たりがある方は少なくないのではないでしょうか。
「あの特定の職員の時は、いつもトラブルが起きる」 「あの班が勤務の時は色々な問題が起きるのに、申し送りや問題提起がまったく上がってこない」 「あの人に伝達しても、全く指示が徹底されない」
こうした不信感が積み重なると、やがて現場には「あの人に言っても、どうせ話が伝わらない」「だからもう、こちらからも何も協力してやらないでおこう」という、職員間の冷めた諦めが蔓延していきます。
この組織内部の諦めこそが、実は情報共有を完全に止めてしまう致命的な一歩なのです。問題が共有されず、特定の班や特定の職員の中だけでブラックボックス化してしまう。結果として、組織としての対応基準が存在しない状態となり、ハラスメントを行う側につけ込む「隙」を大きく広げ、事態をどんどんエスカレートさせてしまうのです。
病棟での事例:特定のシフトでだけ繰り返される問題
私が以前、ある病院から相談を受けた際の事例をご紹介します。その病棟では、まさに先ほど述べたような組織内部の問題が起きていました。ある特定の看護師が夜勤のシフトに入った時にだけ、決まって特定の患者さんとの間で問題が起きていたのです。
クレームの内容は「ドライヤーの音がうるさい」「エアコンの動作音が気になる」「洗濯機からにおいがする」といったものでした。これらは通常であれば、個人の感覚の差として片づけられるか、簡単な説明で納得していただけるような内容です。
しかし、この事案は性質が異なりました。この患者さんは、自分の主張どおりに要求が通らないと猛烈に怒り出し、要求に応じなかった看護師を名指しして、他の職員たちに不平不満を言いふらすという行動をとっていたのです。現場の職員たちは「今日は何を言われるだろうか」と不安を抱え、びくびくしながら勤務にあたるのが日常になっていました。
詳細に事実関係を確認していくと、重大な事実が浮かび上がってきました。その患者さんが過剰な要求を突きつけてくるのは、対応が弱腰になりがちな特定の看護師がシフトに入っている時だけだったのです。さらに深刻だったのは、その看護師や班からの申し送りにおいて、トラブルやクレームの経緯についての引き継ぎがまったく行われていなかったことでした。
統一した基準を決めても、引き継がれなければ意味がない
この状況を改善するため、病棟では「何か新しい要求があった際には、個人の判断で動くのではなく、病棟として定めた一つの基準で対応する」という方針を決定しました。
しかし、ルールを作っただけでは状況は良くなりませんでした。なぜなら、標的にされていた看護師のシフトでは、相変わらず出来事の引き継ぎそのものが行われていなかったからです。自分が受けた理不尽な要求や、それに対してどう対応したのかという記録が残されない。そもそも「困っている」という問題提起すらなされない。これでは、いくら立派な統一基準を作っても、まったく効果を発揮しません。
ハラスメントを行う人物というのは、周囲が放っておけば要求がどんどんエスカレートし、被害の範囲が広がっていくという性質を持っています。「ここは要求が通る場所だ」「この班の時はわがままが言える」と認識させてしまうと、後からそれを覆すのは何倍もの労力を要します。
こうした事態に対し、管理職が「なぜ報告しないんだ」と大声で厳しく叱責し、力で押さえつけるような指導をしても根本解決にはなりません。個人を過度に責め立てると、その職員はさらに萎縮し、失敗やトラブルを隠すようになります。結果として、ますます現場の情報が上がってこなくなり、「あの班にはもう協力しない」という組織の分断を深める悪循環に陥ってしまうのです。
状況を劇的に変えた「全体の情報共有」と「一貫した統一対応」
そこで、私のアドバイスをもとに、この病棟では大きな方針転換を行いました。それは、「全体の情報共有」を土台とし、「誰が、どのような場合でも同じ対応をする」という一貫した統一体制を構築することです。
もちろん、その具体的な手段として、「複数対応」や「記録の徹底」といった手法も取り入れました。標的にされがちな看護師がシフトに入る際には役職者が同席し、どのような言動があったのかを客観的な事実として文字に残すようにしたのです。しかし、これらの手法はあくまでツールに過ぎません。
最も重要だったのは、集約された情報をもとに、病院として「できることはできる、できないことはできない」と毅然とした態度を示すことでした。
どのような要求があり、それに対して病院としてどのような見解を伝えたのか。その情報を些細なことであっても全員で共有し、次のシフトの担当者が誰であっても、昨日と全く同じ基準で対応する。例外は一切認めない。特定の職員の記憶力や、対応スキルの巧拙に依存する仕組みを排除し、「個人の場当たり的な対応」から「病院としてのブレない対応」へとフェーズを引き上げたのです。
この「全体の情報共有と統一的な対応」を徹底した結果、その患者さんからの理引なクレームは目に見えて減少していきました。
誰が対応しても、いつ対応しても、病院として全く同じ説明をする。良いことは良い、駄目なルールは絶対に駄目だと、毅然とはっきりさせる。それが組織全体で統一できれば、ハラスメントを行う側がつけ込む隙は、極めて小さくなっていきます。
そしてこの一貫した対応は、「あなたが話しているのは一人の看護師ではなく、院長以下、病院全体の総意である」という強烈なメッセージになります。悪質なクレーマーはよく「責任者を出せ」「院長を呼べ」と要求しますが、現場の職員が「いま私が申し上げていることが、当病院としての最終的な見解です」と毅然と回答できるのは、この強固な情報共有と統一方針の裏付けがあるからこそ可能なのです。
元警察署長が語る、「留置場」と「病院」の意外な共通点
これまでお話ししてきた「情報共有の欠如が隙を生み、一貫した対応が秩序を取り戻す」という構図は、実は医療や福祉の現場に限った話ではありません。私がかつて警察官として、警察署の留置場勤務にあたっていた頃の経験にも、根本的にまったく同じ力学が働いていました。
留置場は、重大な犯罪を犯した人物などを相手に、厳格な法と規律を守らせなければならない過酷な職場です。ここも病院と同じく、交代制の勤務体制が敷かれています。驚くべきことに、この特殊な環境でも、病棟のクレーム問題とまったく同じことが起こりました。
「この前の担当者は少しだけおまけしてくれたのに、今日の担当者はなぜそんなに厳しいんだ」 「もっと融通を利かせろ」
細かなルールの運用は、全職員で一糸乱れず統一していなければなりません。しかし、対応が弱腰になりがちな特定の職員が勤務している時間帯に、必ずそこにつけ込んだ執拗な要求がなされることがありました。そうした例外的な対応が一度でも起きてしまうと、留置人全体が「担当者によってはわがままが通るんだ」「ミスにつけ込めば主張を押し通せるんだ」と即座に学習します。一人の隙、一つの班の伝達漏れが、全体の秩序を揺るがし、崩壊させていくきっかけになるのです。
「組織としての対応に一貫していない部分がある」という事実そのものが明確な弱点として認識され、そこに悪意や理不尽な要求が集中的に向けられるという意味では、病院も留置場も問題の根っこは驚くほど共通しています。
そこで私たちが行った対策も、まさに病棟の事例と同じでした。対応の弱い部分を複数人で補強すると同時に、日常業務の些細なルールについても全体で方針を完全に統一し、「できることはできる、できないことはできない」と毅然と対応するように徹底したのです。すると、数か月という短い期間で、以前の荒れていた留置場とは見違えるような、厳正で秩序ある安全な状態へと生まれ変わりました。これは、私がある警察署の留置管理課長として現場の指揮を執っていた時の、鮮烈な成功体験です。
まとめ:強固な職場環境は、地道な情報共有から作られる
秩序に従わせ、安全な環境を維持していく。そのために不可欠なのは、徹底した「全体の情報共有」と、組織としての「一つの方針」のもと、全員が全く同じ対応を、毅然とした態度で行い続けることでした。
繰り返しになりますが、情報共有の徹底とは「組織として同じ対応をする」という決意の表れです。誰が相手の前に立っても、どのような時間帯であっても、決して揺らぐことのない同じ基準で応じる。良いときは良い、駄目なときは絶対に駄目だと一貫して示す。それが現場の隅々まで行き渡れば、ハラスメントを行う人物がつけ込む隙は完全に消滅します。
「情報共有」と聞くと、何か特別なシステムや大がかりな仕組みが必要だと身構えてしまう方もいるかもしれませんが、実際には申し送りノートの記載ルールを見直すことや、記録の様式を全病棟で統一することなど、地道な取り組みの積み重ねで十分なのです。
ただし、どれほど素晴らしい仕組みを整えても、それを運用する職員一人ひとりの心の中に「なぜ私たちはこの情報を共有しなければならないのか」という危機意識が伴っていなければ、記録はただの作業になり、申し送りは形骸化してしまいます。最も大切なのは、仕組みそのものではなく、「どんな些細な兆候でも必ず共有する」という運用と、それを支える安全への意識を、組織全体で継続していくことです。この継続を根底で支えるのは、経営層や管理職の皆様が「これは組織全体の課題である」という強い姿勢を明確に示し続けることに他なりません。
個人の頑張りや我慢に頼るのをやめること。 「あの班にはもう言っても無駄だ」という内部の諦めを払拭し、些細な情報を隠さずに共有すること。 そして、組織として「できる・できない」を明確にし、一貫した毅然たる姿勢を示すこと。
私が提唱するペイシェントハラスメント対策の七箇条の中でも、まずは足元の「情報共有」を見直していただくこと。それが、一見遠回りに見えて、実は組織を守る最も確実で強力な第一歩になると、私は確信しています。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、現場の担当者の方が個別で深くお悩みの場合もあるかと思います。どうぞご安心してお気軽にお声がけください。
