現場で孤立する医療従事者と経営層のすれ違い
日々の診療や看護の業務の中で、患者さんやそのご家族からの理不尽な要求、度を越えた暴言、あるいは執拗なクレームに頭を悩ませている医療機関は決して少なくありません。一般社会では「カスタマーハラスメント(カスハラ)」として大きな社会問題になっていますが、医療機関においては「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」と呼ばれ、現場で働く皆さんの心身を深く疲弊させる深刻な課題となっています。
経営層の皆様におかれましては、「現場からのSOSに対して、組織としてどこまで介入するべきか」「患者さんとの関係性を壊さずに、どう対応の線引きをすべきか」と、日々苦慮されていることとお察しいたします。
本ブログでは、医療機関におけるハラスメント問題、いわゆるカスハラ(厚生労働省の公式見解ではペイシェントハラスメント、略してペイハラとも呼ばれているもの)に対して、経営トップがどのように向き合い、組織としてどのような仕組みづくりをしていくべきかを詳しく解説していきます。
実は、ハラスメント対応において極めて重要でありながら、驚くほど語られることのない「ある大原則」が存在します。このブログを読むことで、現場のスタッフがなぜ声を上げず、ある日突然静かに辞めていってしまうのか。その根本的な理由と、大切な職員と組織を守り抜くための具体的な解決策をご理解いただけるはずです。
相談者に不利益を与えてはいけないという隠れた原則
私が法律相談やハラスメント研修の最前線に立っていて、常に強く感じていることがあります。
それは、「相談をした職員、あるいはその問題解決に協力した職員に対して、決して不利益を与えてはならない」という実務上の大原則が、現場において十分に認識されていないという事実です。
研修の場でも実際のトラブル対応の現場でも、議論の多くの時間は「事実関係をどう聞き取るか」「初動対応の記録をどう残すか」といった、目の前の手続きや対応方法に割かれます。その結果、勇気を出して相談した職員自身が、その後組織の中でどのような立場に置かれ続けるのか、という一番大切な部分にまで目が向けられないことが非常に多いのです。
しかし、法律やそれに類する各種の制度は、この点を非常に重く見ています。労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法)をはじめ、公益通報者保護法、セクシュアルハラスメントに関する各種指針など、これらの多くは「不利益取扱いの禁止」を明文で定めています。
なぜ法律は、ここまで強く不利益取扱いを禁止しているのでしょうか。
それは、これらの問題の多くが、声を上げた側と訴えられた側との間に明確な「対立関係」が生じることを前提としているからです。パワーハラスメントであれば加害職員と被害職員、公益通報であれば通報者と組織、というように、声を上げれば自分が所属する組織内の誰かと敵対することになります。
だからこそ、報復人事や職場での嫌がらせといった不利益な扱いを受けるのではないかという恐怖が、当事者にとって極めて現実的なリスクとして存在します。国はその恐怖を取り除き、問題を適切に表面化させるために、法律で明確に禁止する必要があったのです。
医療現場におけるカスハラが抱える特殊な構造
ところが、医療現場で発生するカスハラ(ペイハラ)については、本来であれば少し事情が異なるはずです。
相談者である医療従事者、たとえば病棟で働く看護師が被害を受けている相手は、組織の内部の人間ではありません。外部の存在である患者さんやそのご家族です。つまり、本来の構図からすれば、迷惑行為を行う外部の人間に対して、現場の看護師と、その看護師を雇用して守るべき立場にある病院の経営層は「同じ側」に立って対峙するはずなのです。
組織の内部において、相談した職員が不利益を受けるという事態は、理屈の上では起こりにくいはずです。しかし、実際の医療現場では全く異なる悲劇が起きています。
ハラスメントの矢面に立たされている現場の職員たちと、病院長や理事長をはじめとする経営層との間に、深刻な利害の対立が生じてしまうケースが後を絶ちません。
「なぜ病院は私たちをきちんと守ってくれないのか」という現場の切実な悲鳴。 「できれば事を荒立てず、現場のコミュニケーションでなんとか穏便に収めてほしい」という経営側の思惑。
この両者がすれ違ったとき、本来は一枚岩となって立ち向かうべき組織の内側に、静かな、しかし修復が極めて困難な溝が生まれてしまうのです。
長崎の病院を舞台にした裁判例が示す重い教訓
この「組織内のすれ違い」が如実に表れた事例として、私が研修や講話の中でたびたび取り上げる裁判例があります。
長崎市内で入院・救急医療を担う社会医療法人が、入院患者の長女を被告として、その言動によって看護師の離職が相次いだことなどを理由に損害賠償を求めた訴訟です。
裁判の記録や報道によれば、患者さんは重篤な既往症があり、人工呼吸器の管理を要する状態で長期間にわたって入院を続けていました。その間、家族である長女による激しい言動が繰り返されました。深夜から未明にかけて約40分間にわたり治療方針について看護師らを問い詰める、日中に約1時間も看護師らを引き止めて拘束する、夜勤の看護師を問い詰めたうえで帰宅中の看護師長を電話で呼び出すよう指示する、さらには身体接触や人格を否定するような暴言など、常軌を逸した複数の行為が裁判所によって事実として認定されています。
一審の長崎地方裁判所は令和6年1月9日、これらの行為の多くを違法なハラスメントであると明確に認定しました。しかし、看護師の大量離職や病棟運営への支障といった「病院側が主張する損害」と、家族の行為との間に、法律上の因果関係があるとまでは認められないとして、病院側の損害賠償請求そのものは退けました。
さらに、控訴審である福岡高等裁判所は令和6年7月、一審が違法と認定した行為の大半について、家族側の精神的な不安定さや不安感などを理由に違法性を否定する方向へと判断を変更し、改めて請求を棄却。そして最高裁判所第一小法廷は令和7年1月23日、病院側の上告を棄却する決定を出し、病院側の敗訴が確定しました。
私がリスクマネジメントの専門家としてこの事案から強く感じるのは、裁判の勝敗という結果そのものよりも、その手前で起きていた「組織内部の出来事」の重さです。
私が把握している範囲では、この病院ではハラスメント状態が数年という非常に長い期間にわたって続き、患者さん本人が亡くなるまで状況は解消されなかったとされています。その長い年月の間に、心身ともに疲弊しきった看護師たちが次々と職場を去っていきました。現場の責任者である看護師長から病院長に対し、状況を改善してほしいという趣旨の申し入れが文書をもってあったということです。
もしこれが事実であれば、現場は決して黙って耐えていたわけではなく、経営層に対して明確にSOSの声を上げ続けていたことになります。
この訴訟の構図そのものが、現代の医療機関が抱える課題を象徴しています。本来であれば、病院経営陣と現場の職員は、迷惑行為を行う家族に対してスクラムを組んで対応すべきでした。ところが、組織的な対応や介入が後手に回るうちに現場は見殺しにされ、人が離れていき、病院はその損害を「後から」患者家族に請求するという形でしか事態に向き合えなかったのです。
激しいハラスメントの渦中において、現場の職員を守るための組織的な防波堤が十分に機能していなかったのではないか。私にはそう思えてなりません。
👇 今回取り上げた長崎の裁判例について、より詳細な判決の分析や「現場任せの対応が招く組織崩壊のメカニズム」を深く知りたい方は、ぜひこちらの記事も合わせてご覧ください。 【カスハラ裁判】看護師4人退職裁判から紐解くガバナンスの死角:現場任せの院長が招く上下離反と病院が崩壊していく本当の理由 (https://shibaken-poli.com/2026/07/05/%e3%80%90%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%8f%e3%83%a9%e8%a3%81%e5%88%a4%e3%80%91%e7%9c%8b%e8%ad%b7%e5%b8%ab4%e4%ba%ba%e9%80%80%e8%81%b7%e8%a3%81%e5%88%a4%e3%81%8b%e3%82%89%e7%b4%90%e8%a7%a3%e3%81%8f%e3%82%ac/)
なぜ現場は声を上げず静かに去っていくのか
このような悲惨な事態を招いてしまう組織には、いくつかの共通した傾向があると私は分析しています。
第一に、日頃からの組織的な対応ルールや情報共有の仕組みが構築されていないことです。現場で起きているトラブルやクレームが、経営層まで正確に、かつ速やかに伝わるエスカレーションの仕組みが機能していない状況です。
第二に、トラブル対応を現場の努力や個人の忍耐に丸投げしてしまう「現場任せの体質」です。本来であれば、経営層が組織としての意思決定を行い、複数名での対応体制を整えたり、毅然とした対応を取ったりすべき場面で、「まずは現場でうまくコミュニケーションを取って対応してみて」という指示を出してしまいます。これは一見、現場の裁量を重んじているようで合理的に聞こえますが、繰り返されるうちに現場にとっては「結局、自分たちで傷つきながら何とかするしかないのだ」という深い絶望と諦めに変わっていきます。
第三に、そしてこれが最も深刻ですが、現場から助けを求める声が上がったときに、経営層がかえって不機嫌になってしまうという反応です。現場からの困りごとの報告が、まるで「経営陣に面倒事を持ち込んできた」かのように扱われれば、次第に現場のスタッフは「相談しても無駄だ」「かえって自分の評価が下がるだけだ」と学習してしまいます。
あからさまな減給や配置転換といった処分がなくとも、相談した側が心理的に孤立し、職場での居場所を失っていくのであれば、それは労働法制が禁じている「不利益取扱い」そのものです。
こうした環境の中に置かれ、ハラスメントの矢面に立たされ続けた職員は、やがて声を上げること自体を諦めます。そして限界に達したとき、労働組合への駆け込みや経営陣への直接交渉といった目に見える形での抗議はしません。ただ黙って退職願を出し、静かに組織を去っていくのです。これが、経営層が気づかない間に進行する「沈黙の退職」の恐ろしさです。
法律と指針が強く求める組織の一体性
こうした状況を、法律の観点から整理してみましょう。
労働施策総合推進法第33条第2項は、「労働者が前項の相談を行ったこと又は事業主による当該相談への対応に協力した際に事実を述べたことを理由として、当該労働者に対して解雇その他不利益な取扱いをしてはならない」と定めています。
また、使用者(病院側)には労働契約法第5条に基づく「安全配慮義務(職場環境配慮義務)」があります。これは、従業員が生命、身体、精神の安全を確保しつつ労働できるよう必要な配慮をする義務です。カスハラを現場任せにして放置することは、この安全配慮義務違反に直結し、組織としての重い責任を問われる可能性があります。
先ほど取り上げた長崎の事例は、経営側が意図的に報復的な措置をとったという話ではありません。しかし、現場からの切実な訴えに対して組織的な対応が機能せず、結果として現場が孤立し、疲弊し、離職に至ったという構図そのものが、これらの法律が本来防ごうとしている事態の一つの姿だと私は捉えています。
さらに、国の動きも加速しています。令和8年2月26日、厚生労働省は「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」を告示しました。令和8年10月1日の施行に向け、この指針は事業主が講ずべき措置の明確な柱として、相談や協力を理由に解雇その他不利益な取扱いをされない旨を定め、労働者に周知・啓発することを明確に求めています。
いよいよ、医療現場のカスハラ対策は「できればやるべきこと」から「法律上の義務」へと変わるのです。
組織を守る極意はトップの強烈な意思表示にある
この厚労省の指針が事業主に求める措置の筆頭に置かれているのが、「方針の明確化及びその周知・啓発」です。職場におけるハラスメントには毅然とした態度で対応し、労働者を徹底的に保護する旨の方針を明確化したうえで、これを全職員に周知することが求められています。
私はここに、すべての問題解決の核心があると考えています。
不利益取扱いの禁止や就業規則の改定は、いわば制度としての最低ラインに過ぎません。それよりも手前で組織が本当に問うべきは、院長や理事長といった経営トップ自身が、「何があっても現場の職員を守り抜く」という強烈な意思を、自らの言葉で、繰り返し、職員に向けて明確に発信しているかどうかです。
看護師長からの悲痛な申し入れがあったとされる事例のように、現場が声を上げているにもかかわらず組織としての意思表示がなされない状態が続けば、現場は「自分たちは捨てられた」と感じます。方針の周知徹底とは、単に作られた文書を朝礼で読み上げたり回覧板を回したりすることではありません。トップ自身の意識改革そのものが、熱量を持って職員に伝わって初めて意味を持つものです。
組織の一体性というものは、立派なマニュアルや規程だけで作られるのではありません。トップ自身が「これは経営課題であり、自分の問題である」として現場の困難を正面から引き受ける姿勢を見せたときに、初めて現場の職員の心の中に「この組織で働き続けよう」という安心感が根づいていくのだと、私は確信しています。
早期に外部の専門家へつなぐという安全弁
もう一つ、リスクマネジメントの観点から強く申し上げておきたいのは、こうした事態を防ぐためには「院内だけで問題を抱え込まない」という姿勢が不可欠だということです。
対応が難しいクレームや悪質なハラスメントが発生した際は、早い段階で外部との連携を図る仕組みが必要です。顧問弁護士への法的相談はもちろんのこと、暴行や脅迫、不退去といった悪質な行為が刑事事件に該当しうる場合には、躊躇なく警察へ相談・通報する。また、地域の医師会等が提供する医療安全に関する支援を活用するなど、外部の専門的な視点と介入を早期に取り入れる体制を「平時から」整えておくことが重要です。
外部の視点が入ることは、現場の訴えが単なる愚痴ではなく「組織として対応すべき重大な危機管理事案である」と経営層に客観的に認識させる効果があります。と同時に、現場の職員自身にとっても「自分たちの声はきちんと外の専門機関にもつながっており、組織が動いてくれている」という何よりの安心感につながるのです。
おわりに
医療現場におけるカスハラ(ペイハラ)は、本来であれば相談者(職員)と相手(患者・家族)が明確に対立し、組織は職員を守るべき類型です。しかし、組織的な対応が現場に丸投げされ、経営層が事なかれ主義に陥ったとき、思いがけない形で現場の職員と経営陣とが対立関係に陥り、組織が内部から崩壊してしまいます。
不利益取扱いを禁止するという法律の規定の裏側にあるのは、単なるルールの遵守ではありません。それは、組織全体が一体となって対応し、情報を隠さず共有し、職員全員が同じ方向を向いて協力するという「組織文化」の構築を求めるメッセージなのです。
その出発点は、トップ自らが「現場を守る」という意思を明確に示すことにほかなりません。現場からの一つの小さな申し入れを、経営層がどれだけ「自分のこと」として受け止められるかどうか。そこにこそ、組織の未来がかかっています。
私は、元警察署長としての危機管理や組織対応の最前線での経験、また財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護専門学校の講師や福岡市医師会の医療安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで、ご依頼に応じて市内の多くの医療機関に足を運び、数多くの相談対応や現場の研修・講話を行ってまいりました。
「理不尽なクレームに現場が疲弊しているが、経営層として何から手をつければいいか分からない」 「職員から相談を受けたが、組織としてどこまで介入すべきか線引きに悩んでいる」 「就業規則やマニュアルを改定したいが、実効性のある内容にする方法が知りたい」
もし、組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、少しでもご相談になりたいことがございましたら、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご連絡ください。経営者様はもちろん、現場で個別にお悩みを抱えておられる担当者様からのご相談も承っておりますので、どうかご安心してお気軽にお声がけください。
本日も最後までブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。日々、患者さんやご家族と真摯に向き合いながら医療の最前線で現場を守っておられる医療従事者の皆様、そして、厳しい環境の中で組織運営に心を砕いておられる経営層の皆様に、心からの深い敬意を込めて。今日もお疲れ様でした。
【事案分析と解決の設計士:柴田 建一(シバケン)】
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)

