日々、最前線で患者さんと向き合い、日本の医療を支えておられる医療従事者の皆様、本当にお疲れ様です。昨今、あらゆる業界で社会問題として大きくクローズアップされている「カスタマーハラスメント(カスハラ)」。皆様もニュースなどで耳にする機会が増えたのではないでしょうか。
実は、このカスハラは医療現場も決して例外ではありません。「一生懸命に治療へ向き合っているのに、なぜ理不尽なクレームを受けてしまうのか」と、終わりの見えない対応に心を痛めている現場のスタッフは少なくありません。厚生労働省の公式文書等では、こうした医療現場における患者さんやそのご家族からの著しい迷惑行為を「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」と定義しています。
つまり、医療現場において発生する悪質なカスハラこそが「ペイハラ」なのです。検索などで「カスハラ対策」と調べると様々な情報が飛び交っていますが、本ブログでは、この医療現場特有のカスハラである「ペイハラ」に焦点を当て、現場の実態に即したお話をしていきます。
このブログを読むことで、日常診療に潜むペイハラ発生のリスクをどのように未然に防ぐか、そして万が一トラブルに発展しそうなときに、医療従事者としての身をどう守るべきかという具体的な解決策が見えてきます。私が日頃から医療機関の皆様にお伝えしている対策の根幹である「説明責任」と「やるべきことをやる」という二つの要素が、いかに医療現場を守る強力な盾になるのか。実際の事例や法的根拠を交えながら、深く掘り下げて解説いたします。
訪問診療の現場で起きた悲劇――「様子を見る」という判断の落とし穴
ある訪問診療の現場で、ご担当者様からこんな切実なご相談を受けたことがあります。
患者さんの家族から「最近、血液検査をしてくれていないので心配だ」というお申し出がありました。しかし医師は、その時点でのバイタルサイン(血圧や脈拍など)は極めて安定しており、他に急変を示すような所見も見られなかったため、医学的な観点から「今はあえて採血という負担をかける必要性は乏しい」と判断し、そのまま様子を見て経過を観察していました。
ところが数日後、定期診療のタイミングでしばらくの間検査をしていないのであれば確認する必要はあると採血したところ、ナトリウムの数値が非常に高く、そのまま緊急入院となってしまったのです。これを受けたご家族は激怒し、「検査を先延ばした見落としだ」「明らかな医療ミスだ」として、医療スタッフに対する激しいクレーム、いわゆるペイハラへと発展してしまいました。
この出来事の本当の問題は、果たしてどこにあったのでしょうか。私は、検査を数日先送りしたという「医学的判断そのもの」が間違っていたからではないと考えています。最大の要因は、「なぜ今、この時点で検査をしなくてよいと判断したのか」を、その場できちんとご家族に説明していなかったことにあるのです。
「血圧や脈拍の数値が安定していること」「他に急変を疑うような兆候が見られないこと」――こうした専門家としての判断の根拠を、ご家族が安心できるような平易な言葉で一言添えるだけで、事態の受け止め方は大きく変わっていたはずです。ご家族からすれば、何も説明がないまま入院という結果だけを突きつけられれば、「放置された」という不信感が怒りに変わってしまうのも無理はありません。
多くのハラスメント事案のご相談をお受けしてきた私の実感として、悪質なクレームやカスハラへの対応というと「起きてしまった後、どう相手を鎮めるか」という後手の対応に目が向きがちです。しかし、実はその大半が「あのとき、きちんと説明さえしていれば起きなかったのではないか」という一点に行き着くのです。
医療現場のカスハラを防ぐ強力な盾となる「説明責任」の法的根拠
では、医療現場において「説明したかどうか」がこれほどまでに重く問われるのはなぜでしょうか。そこには、ただの道義的な問題にとどまらない、明確な法的な裏付けが存在します。大きく分けて、二つの根拠について分かりやすく整理してみましょう。
医療契約の構造「準委任契約」と「善管注意義務」
まず一つ目の根拠は、患者さんと医療機関との間に結ばれる契約の構造そのものにあります。
医療行為は、法律上「準委任契約」と位置づけられています(民法第656条)。これは「結果を必ず約束する(病気を絶対に治す)」という契約ではなく、「専門家として、その時にやれる最善の努力を尽くす」という契約です。
この準委任契約において、受任者である医療者は、委任者である患者さんに対して「報告義務(民法第645条)」を負います。治療の経過や現在の状況を、随時適切に報告しなければならないというルールです。また同時に、医療者は「善管注意義務(民法第644条)」を負います。少し難しい言葉ですが、要するに「専門家として求められる水準の注意を払い、誠実に業務を遂行する義務」のことです。
医療は不確実性を伴うものであり、どれほど手を尽くしても望まない結果になることがあります。だからこそ、結果ではなく「その場でやるべきことを誠実に尽くしたか」、そして「それを患者さんにきちんと報告・説明したか」が、法的に強く問われるのです。
憲法が保障する「自己決定権」
もう一つの重要な根拠は、患者さんの「自己決定権」という人格権です。
自分の身体にどのような治療を施すか、大きく言えば自分の生き方や命のあり方について、どのような対処を行うかを自律的に決定できる権利です。この自己決定権は、日本国憲法第13条が定める「幸福追求権」に根拠があるとされています。
この権利が法的に大きくクローズアップされたのが、最高裁判所平成12年(2000年)2月29日判決の「エホバの証人輸血拒否事件」です。宗教上の信念から「いかなる場合でも輸血は拒否する」という明確な意思を持っていた患者さんに対し、医師がその意思を尊重せず、救命のために輸血を行ったケースでした。最高裁は、患者さんが自分の生き方に基づいて治療方針を決定する権利を侵害したとして、医師側の責任を認めました。
医療者と患者さんの間には、専門知識の面でどうしても大きな情報量の差が存在します。その差を丁寧に埋め、患者さん自身が「自分の身体をどうするか」を自分で決めるための判断材料を提供すること。これこそが、医療現場における説明義務の本質的な役割なのです。
何をどこまで説明すべきか――最高裁が示した実務的基準
説明責任の及ぶ範囲は、治療・検査・処方のすべてに及びますが、中でも最も重い判断を伴うのが「手術」の場面です。ここでは、最高裁判所が示した明確な判断基準をもとに、具体的に何をどう説明すべきかを紐解いていきましょう。
乳房温存療法事件が教える「選択肢」の提示
最高裁判所平成13年(2001年)11月27日の判決(乳房温存療法事件)は、医療現場における説明義務のあり方に極めて重要な指針を示しました。
この事件は、乳がんと診断された患者さんが、当時の医療水準としてはまだ確立されきっていなかった「乳房温存療法」の存在を新聞記事で知り、医師にその希望を手紙で伝えたケースでした。しかし、医師は温存療法に対して消極的な説明に終始し、結果として乳房をすべて切除する手術を実施しました。
これに対し最高裁は、「医師は、手術を実施するにあたって、病名と病状、実施予定の手術の内容、付随する危険性、さらには『他に選択可能な治療方法があれば、その内容と利害得失、予後など』について説明すべき義務がある」と明確に判示しました。特に乳がんの手術は、患者さんの精神面や心理面に多大な影響を及ぼすため、医師の知る範囲で、他の医療機関で実施されている治療法であっても、選択肢として提示する義務があったと判断されたのです。
この判例が教えてくれるのは、医療者の独断で「これがベストだ」と決めて押し付けるのではなく、メリットとデメリット、他の選択肢も含めて情報を開示し、患者さんと共に治療方針を作り上げていく姿勢の重要性です。
相手に伝わる言葉で、記録に残すこと
こうした説明を行う際、実務的に極めて重要なポイントが二つあります。
一つは、「専門用語を避け、中学生や高校生でも理解できる言葉で伝えること」です。確率や頻度を伝える際も、「稀に起きます」といった曖昧な表現ではなく、過去の事例や件数、図表などの視覚的な資料を用いて、客観的なイメージを持ってもらう工夫が求められます。
二つ目は、「説明した内容は、良い面も悪い面も含めて必ず書面(カルテ)に残すこと」です。どんなに丁寧な説明をしても、記録に残っていなければ、後になって「言った・言わない」の水掛け論になり、結果としてペイハラを助長する要因になってしまいます。カルテへの客観的な記録は、医療従事者自身を守る最強の防具になります。
日常診療にこそ潜む悪質クレームのリスク――「軽いから省略」は通用しない
ここまで手術のような重大な場面を例に挙げてきましたが、説明責任は決して大掛かりな治療に限った話ではありません。日常的な投薬や簡単な検査においても、まったく同じ重みで存在しています。
よく見受けられるのが、「発生頻度が極めて低い副作用だから、あえて不安を煽らないように説明を省略する」という医療者側の配慮です。しかし、患者さんからすれば「頻度が低くても、起きたときの結果が重大なもの」こそ、事前に知っておくべき最重要情報です。
病状の重い軽いに関わらず、ケースバイケースで必要な説明はしっかり行う。この原則がぶれてはいけません。「ほとんど起こらないから」「説明したところで他に治療法がなかったから」という医療者側の事情は、いざ望ましくない結果が起きたとき、すべての患者さんに善意として受け止めてもらえるとは限らないという厳しい現実を知っておく必要があります。
常に患者さんの目線に立ち、「この患者さんがどのような気持ちでいれば、仮に合併症が起きたとしても『事前に聞いていた通りだ』と納得し、大きな怒りやクレームに至らずに済むのか」を想像することが大切です。患者さんの年齢、お仕事、健康に対する価値観など、個別の背景に寄り添った説明の工夫が、最終的な信頼関係の構築へとつながっていきます。
カスハラ対策の根幹は「やるべきことをやる」と「説明責任」の表裏一体
私が日頃から提唱しているカスタマーハラスメント・ペイシェントハラスメント対策の柱の一つに、「やるべきことをやる」というものがあります。実は、この「やるべきことをやる」ことと「説明責任を果たす」ことは、完全に表裏一体の関係にあります。
「やるべきことをやる」ための基礎となるのは、学会が定めた各種ガイドラインや、処方するお薬の添付文書に日頃からしっかりと目を通しておくことです。添付文書には、起こり得るリスクや注意すべき初期症状が記載されています。それらを事前に把握したうえで、「このような症状が出たら、すぐに再受診してくださいね」と患者さんに一言添える。これこそが、「やるべきことをやり、説明責任を果たした」という強固な事実(実質)を作り上げます。
特に、冒頭の訪問診療の事例のように「しばらく様子を見る」「あえて今は何もしない」という判断をしたときほど、説明責任は厳しく問われます。なぜ今は何もしなくて良いのか、どのような変化があればすぐに対応するのか。この「やらない理由」を的確に説明できることこそが、プロフェッショナルとしての真骨頂であり、悪質なクレームの芽を摘む最大の防御策となります。
説明を尽くしても理不尽な要求が続く場合――迷わず組織対応へ
しかし、現場の皆様に最後にお伝えしておかなければならない重要な切り分けがあります。
それは、「ガイドラインを踏まえてやるべきことをやり、誠実に説明を尽くした。カルテにも記録を残した。それでもなお、相手が納得せず、大声で怒鳴ったり、長時間の居座りや反復的な不当要求を繰り返してきたりする場合」の対応です。
このような段階に至ったなら、もはやそれは「医学的な説明で解決すべき問題」ではありません。対応のベクトルを明確に「ハラスメント対策(危機管理)」へと切り替える必要があります。
👉 医療ミスを主張するクレームに対し、「医療的対応」と「ハラスメント対策」の二つのベクトルでどう対応を切り分けるかについては、以下の記事でも詳しく解説しています。あわせてぜひご覧ください。
『【クレームかカスハラか】医療ミスを疑う患者対応の限界線と二本立ての解決策』
(https://shibaken-poli.com/2026/09/10/%e3%80%90%e3%82%af%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%81%8b%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%8f%e3%83%a9%e3%81%8b%e3%80%91%e5%8c%bb%e7%99%82%e3%83%9f%e3%82%b9%e3%82%92%e7%96%91%e3%81%86%e6%82%a3%e8%80%85%e5%af%be/)
現場の担当者様が「自分の説明が悪かったからだ」と一人で抱え込んだり、院内だけで解決しようとしたりするのは非常に危険です。説明を尽くし、記録を残しているという事実があれば、外部の専門機関も迅速に動くことができます。顧問弁護士に法的な線引きや診療拒否の妥当性を相談したり、地域の医師会に連携を仰いだり、スタッフの身の安全に危険を感じる暴言や威圧があれば、迷うことなく速やかに警察へ通報してください。
「誠意を持って説明を尽くすこと」と、「一線を越えた要求に対しては組織として毅然とシャットアウトすること」。この両輪を持ち合わせ、適切にギアを切り替えることこそが、真の意味での「説明責任の姿」であり、医療現場を守るための最強の仕組みづくりなのです。
本ブログでは、医療現場におけるカスハラ(ペイハラ)対策の根幹として、なぜ「やるべきことをやる」ことと「説明責任」が重要なのかを解説してまいりました。
説明責任とは、単に法律の条文に書かれているから渋々こなす業務ではありません。医療という不確実な道を、患者さんと共に歩むための信頼の架け橋です。「今は検査を見送る」といった日々の小さな判断に添える一言が、患者さんの安心を生み、理不尽なトラブルから皆様自身を守る堅牢な盾となります。この「やるべきことをやる」と「説明責任」の両輪を、ぜひ明日からの日常診療の仕組みとして組み込んでいただければ幸いです。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。
もし、組織の安全管理や悪質なハラスメントへの対応方法、現場の体制づくりなどでお困りのことや、ご相談になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、現場の担当者様が「誰にも言えず個別で悩んでいる」といったケースも少なくありません。どのような小さなことでも構いませんので、どうか安心してお気軽に声をおかけください。皆様が安心して本来の医療業務に専念できるよう、現場に寄り添い、全力でサポートさせていただきます。
本日も最後まで本ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。日本の医療現場を最前線で支えておられる医療従事者の皆様に、心より深く敬意を表します。今日もお疲れ様でした。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)
公的エビデンス・参考資料(本文で引用した部分の出典)
- 民法第644条(受任者の善管注意義務)・第645条(受任者の報告義務)・第656条(準委任への準用)
- 憲法第13条(幸福追求権)
- 最高裁判所第三小法廷 平成12年2月29日判決(エホバの証人輸血拒否事件):Wikipedia解説/弁護士法人ふくざき法律事務所の判例解説
- 最高裁判所 平成13年11月27日判決(乳房温存療法事件):医療安全推進者ネットワークの判例解説/弁護士法人ALG&Associatesの判例解説/ひかり総合法律事務所の判示引用

