はじめに
医療現場で日々患者さんと向き合う中で、突然投げつけられる理不尽な言葉に、息を呑み、言葉を失ってしまった経験はありませんか。
現場を深く疲弊させているのは、決して大声で怒鳴られることだけではありません。「お前みたいなこんなこともできないのは能力がないからだ」「女だから許されると思っているのか」といった人格否定や侮辱。あるいは「あんたの住所どこや、どこそこに住んどるやろう」といったプライバシーへの悪質な踏み込み。こうした静かであっても刃のように鋭い言葉による暴力に対して、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように立ちすくむしかない。そのような現場からの切実な声が、私の元にも数多く寄せられています。
本ブログでは、医療現場におけるカスタマーハラスメント(以下、検索や社会的な認知度が高い言葉を使用しつつ、医療現場特有のペイシェントハラスメントとして深く掘り下げます)の中でも、現場が最も対応に苦慮する「人格否定・侮辱・プライバシー侵害」への初期対応について解説します。
このブログを読むことで、なぜこうした言葉をさらっと流すことが最大の悪手なのかを理解し、現場の職員を守り、相手の不当な要求をいち早く沈静化させるための具体的な解決策と、「怖いです」という言葉の真の効果を手に入れることができます。
なぜ「何も反応しない(看過する)」ことが一番危険なのか
看過が引き起こすエスカレーションの罠と心理的背景
これまで数多くの個別相談をお受けしてきましたが、医療機関におけるカスハラの中でも、暴言・威嚇・強要型は非常に高い割合を占めています。そして、この型に共通する最大の課題は、人格否定や侮辱の言葉を浴びせられた医療従事者の側が、これまでほとんどの場合において何も反応せず、さらっと流してきたという事実です。
医療従事者の皆様は、極めて強い責任感と倫理観を持っています。「相手は病気で不安を抱えている患者さんだから」「ここで私が言い返せば波風が立って他の患者さんに迷惑がかかるから」と、自らの感情を押し殺し、ひたすら黙って受け流す。これが習慣化してしまっている現場は決して珍しくありません。
しかし、この何も対応しないという姿勢そのものが、カスハラをエスカレートさせる最大の要因になります。人間関係において、言葉の暴力を振るっても相手が反論してこない状態は、加害者側に都合の良い解釈を生み出します。患者の側からすると、「自分は患者なのだから、これくらいのことを言っても許されるのだ」「このスタッフは強く言えば従うのだ」という歪んだ特権意識を強める結果につながるのです。
つまり、現場としてはただひたすらに我慢して中立を保っているつもりでも、実質的には相手の不適切な言動を追認し、許可するメッセージとして相手に伝わってしまっているのが現実です。
組織全体を蝕む特別扱いと不公平な医療提供
初期段階の侮辱やプライバシー侵害を見過ごすと、事態はその場限りでは決して収まりません。「このスタッフには何を言ってもいいのだ」「この病院は強く出れば要求が通るのだ」と学習した一部の患者の言動は、日を追うごとに執拗になります。そして、次第に要求そのものがエスカレートし、正当な理由のない要求を繰り返す患者権威・不当要求型など、別の複雑な型へと形を変えながら組織全体へと広がっていきます。
こうした一部の患者による言葉の暴力を許す状態が長期間続くと、職場全体が萎縮し始めます。スタッフは「あの患者さんを怒らせないように」と過剰に気を遣い、特定の患者に対してルールを曲げた特別扱いをしてしまうようになります。予約外での診察を無理にねじ込んだり、本来であれば断るべき不当な要求に応じたりしてしまうのです。
これは、組織全体の安全や安心を脅かすだけでなく、ルールを守って受診している他の多くの患者さんに対する公平性を根本から崩してしまう、極めて深刻な事態です。だからこそ、暴言や侮辱が発せられたその初期対応の段階で、私たちはこれを看過しないという毅然とした姿勢を明確に示しておくことが、何より重要になるのです。
👉医療ミスを主張する正当なクレームから、次第にペイシェントハラスメントへと進行していく複雑なケースへの具体的な対応策については、こちらの記事で詳しく解説しています。 『【クレームかカスハラか】医療ミスを疑う患者対応の限界線と二本立ての解決策』 (https://shibaken-poli.com/2026/09/10/%e3%80%90%e3%82%af%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%81%8b%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%8f%e3%83%a9%e3%81%8b%e3%80%91%e5%8c%bb%e7%99%82%e3%83%9f%e3%82%b9%e3%82%92%e7%96%91%e3%81%86%e6%82%a3%e8%80%85%e5%af%be/)
言葉の暴力に潜む「法的アウト」のキーワードと客観的根拠
厚生労働省の指針と医療機関におけるカスハラ対策の義務化
こうした現場の深刻な疲弊を背景に、国も大きな動きを見せています。厚生労働省が公表しているカスタマーハラスメント対策企業マニュアルをはじめ、社会全体でカスハラを許さない機運が高まっています。さらに、労働施策総合推進法の精神に基づき、カスハラ防止措置がすべての事業主に義務付けられる法改正の動きも本格化しています。
また、労働契約法第5条には、使用者は労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとするという「安全配慮義務」が明記されています。患者からの暴言や侮辱を放置し、職員が精神的な疾患に追い込まれた場合、医療機関側がこの安全配慮義務違反に問われるリスクが極めて高くなっているのが現在の法的解釈です。
厚生労働省の指針ではカスハラを身体的な攻撃、精神的な攻撃、威圧的な言動などに分類していますが、現場の目線で直感的に判断できるよう、私は日頃から以下の四つの型に整理してお伝えしています。
1.反復・時間拘束型 2.患者権威・不当要求型 3.暴言・威嚇・強要型(本ブログのメインテーマ) 4.セクハラ・わいせつ型
侮辱罪の厳罰化と民法上の不法行為という事実
特に暴言・威嚇・強要型において、大声で怒鳴ったりカウンターを叩いたりする手段の暴力は周囲にも分かりやすく、危険を察知しやすいものです。しかし、静かなトーンで行われる人格否定や侮辱といった内容の暴力は、周囲に気づかれにくく、当事者だけが深く傷つくため、看過されやすいという特徴があります。
「お前は馬鹿か、それでも看護師か」「あの大学を出ているから使えないんだ」といった個人の能力や学歴を否定する言葉。「女だから許されると思っているのか」といった不当な差別。「あんたの住所どこや」といったプライバシーへの侵害。
これらは、その場の感情に任せて発せられたものであっても、決して許されるものではありません。令和4年に厳罰化された刑法第231条の「侮辱罪」や、刑法第230条の「名誉毀損罪」、さらには民法第709条の不法行為に基づく損害賠償請求の対象となり得る、明確な犯罪行為や違法行為のキーワードです。
つまり、内容や状況にもよりますが、原則としてこれらは法的な観点からも明確にアウトなのです。「患者だから仕方ない」で済まされる時代は終わりました。こうした言葉が一言でも相手の口から出た瞬間に、まずこれ以上は看過しないという明確な意思表示をすることが、職員自身と組織を守るための絶対的な基本となります。
現場を守る具体的な解決策:初期対応の三つのステップ
では、実際にそのような人格否定や侮辱の言葉を投げかけられたとき、現場のスタッフはどのように対応すればよいのでしょうか。私は現場の皆様に、次の三つの段階を踏んだ具体的な実践ステップをお伝えしています。
第一段階:その場での意思表示(段階的な問い返しで事実を確定させる)
相手から突然、理不尽な人格否定の言葉を浴びせられたとき、第一声でいきなり「今のは私の人格を否定するお言葉ですか?」と切り返すことは、恐怖と驚きの中で非常にハードルが高く、勇気がいることです。無理に難しい言葉を使おうとすると、言葉に詰まってしまい、結果的に黙って受け流してしまうことになりかねません。
そこで極めて有効なのが、短い言葉で段階的に問い返し、相手に事実を確認させる手法です。 不適切な言葉が出た瞬間に、まずは自ら会話のテンポを止め、こう問いかけます。
「ちょっと待ってください。今、何とおっしゃいましたか?」 「申し訳ありません、今のは誰のことでしょうか?」 「どういう意味でおっしゃったのでしょうか?」
このように聞き返すことで、相手の勢いを削ぐことができます。すると、興奮している相手は高確率で「お前のことを言ったんだ!」「あんたが馬鹿だと言ったんだ!」と、自らの暴言を明確に肯定する言葉を返してきます。相手の口から具体的な対象が自分であることを言質として取ったその直後に、本丸の意思表示を行います。
「お前のことだと言われましたが、それは私を侮辱されているのでしょうか?」 「私個人の能力や人格を否定されているのですか?」 「プライバシーに関わることにはお答えできませんし、そのようなお尋ねはハラスメントに該当する恐れがあります」
相手の言葉の波に飲み込まれるのではなく、一度立ち止まらせて、段階を踏んで今、社会通念上許されない不適切な発言があったという事実を、相手自身に認識させることが極めて重要です。この「問い返しによる事実の確定と指摘」という行為自体が、最大の防衛線になります。
第二段階:明確な改善要求(組織としての境界線を引く)
第一段階の意思表示をしても、相手が非を認めず、同じような侮辱や威圧的な言動が繰り返される場合の対応です。ここでは、個人の対応から組織としての対応へとギアを一段階上げます。
「そのような言動を改めていただけなければ、これ以上対応を進めることはできません」 「大声での威圧や侮辱的なお言葉が続くようであれば、お話を伺うことは困難です」 「一旦お引き取りいただくことになります」
と、毅然とした態度で伝えます。ここでの目的は、相手を言い負かすことではありません。「私たちは適切な医療を提供したいと考えているが、あなたのその不適切な態度のままでは決して先へは進めない」という、組織としての明確な境界線を引くことです。患者としての権利を行使するためには、最低限の社会的マナーを守る義務があることを、態度と行動で示します。
第三段階:恐怖・不安の言語化(状況に応じた最強の牽制球)
基本的には第一段階、第二段階と順を追って対応しますが、相手の態度が改まらない場合に現場のスタッフが使える極めて有効な技術が、自身の感情(恐怖・不安)の言語化です。
ただし、現場の状況によっては、必ずしもこの順番を律儀に守る必要はありません。 例えば、相手の手段が最初から極端な大声であったり、しつこく威圧的で是正の余地が全く認められない場合。あるいは、スタッフ自身が最初の言葉を浴びた段階で、すでに強い恐怖や不安を感じてしまった場合などです。
このような悪質なケースでは、「第三段階」の言葉を、第一段階の問い返しや第二段階の改善要求と組み合わせて使うことが非常に効果的です。
「ちょっと待ってください。そのように大声を出されると、私は非常に不安で怖いです」(第一段階との組み合わせ) 「そのように私のプライバシーに踏み込むようなことを言われると怖いですし、これ以上は対応を進めることができません」(第二段階との組み合わせ) 「そのような侮辱的な言い方をされると、手が震える思いです。勇気を出して申し上げています」
自分が心理的・身体的に感じている不安や恐怖をごまかさずに、そのまま言葉にして伝えます。これは大声に対してだけでなく、静かなトーンでの陰湿な言葉責めに対しても絶大な効果を発揮します。
なぜこれほどまでに効果があるのでしょうか。それは、ハラスメントを行う相手の多くが「自分は正当なクレームを言っている被害者である」あるいは「正当な権利を持つ患者である」という錯覚に陥っているからです。「怖いです」という言葉は、野球でいう一塁ランナーへの強烈な牽制球のようなものです。相手に対して、「あなたは今、正当な主張をしているのではなく、加害者として目の前の人間を怯えさせ、傷つけているのだ」という客観的な事実を、極めて明確に突きつける効果があるのです。
自らの加害性に直面させられた瞬間、多くの人はハッとして勢いを失います。感情的になって言い返すのではなく、決して怯むことなく、素直に自分が感じている恐怖を言語化する。これは、相手の勢いを削ぎ、その場の主導権をこちらが握り直すための、極めて高度で実践的な対人技術なのです。
「ほのめかし」への対応と第三者機関との連携が持つ意味
インターネットへの書き込みを示唆された場合の対応策
近年、医療現場で急増しているのが、直接的な暴言ではなく「ネットの口コミに書くぞ」「SNSで顔を晒してやる」といったほのめかしによって、こちらの不安を煽るケースです。
ここでも不安の言語化が活きます。相手が曖昧な脅し文句を使ってきたときは、すかさず言葉の意味を具体化して問い返します。 「口コミに書くというのは、事実と異なる誹謗中傷や、私という個人が特定される形でインターネット上に書き込むという意味でしょうか。もしそうであれば、私はとても不安で怖いです」
このように、相手の曖昧な言葉をこちらがどう解釈し、どれほどの恐怖を感じているのかをはっきりと伝えます。相手の逃げ道を塞ぎ、その発言が脅迫や強要に近いものであることを自覚させることで、ネット上での匿名性を盾にした卑劣な行為を未然に防ぐ効果があります。
意思表示と改善要求が客観的な証拠に変わる瞬間
この「意思表示(段階的問い返し)」「改善要求」「恐怖の言語化」というステップには、相手を鎮静化させること以外に、極めて重要な組織防衛の役割があります。
カスハラを行う相手は、後になって警察や厚生労働省、マスコミなどに「病院の態度が悪かった」「親身になってくれなかった」と自分に都合よく訴え出ることが多々あります。その際、現場の職員が「今、誰のこととおっしゃいましたか?」「そのような言い方をされると怖いです」と明確に意思表示と改善要求を行っていたにもかかわらず、相手が不当な言動を改めなかったというプロセスは、極めて客観性を持った強力な証拠材料になります。
単に「スタッフが不快に感じた」という個人の感情論ではなく、「明確にやめてほしいと改善要求をしたのに、相手が不法行為をやめなかった」という事実の経過が存在することで、はじめて警察や弁護士などの外部機関に対して事案を論理的に説明し、協力を仰ぐことができるようになるのです。
終わりに
人格否定や侮辱、差別、プライバシー侵害といった言葉の暴力に対して、現場が最も避けなければならないのは、初期段階での沈黙、すなわち看過です。法的な観点からも明確にアウトな言動に対して何の意思表示もしないことは、相手の不当な特権意識を増長させ、最終的には職場全体の安全と安心を壊してしまうことにつながります。
今日お伝えした「段階的な問い返しによる意思表示」「改善要求」「恐怖・不安の言語化」という三つのステップは、事案の要所要所で繰り返し使える、現場のための実践的な技術です。必ずしも順番通りである必要はなく、現場の状況や相手の悪質性に応じて組み合わせて使うことで、より強い効果を発揮します。現場の職員が一人で抱え込まず、組織の仕組みとして毅然とした対応を取ること。その日々の小さな積み重ねが、医療従事者一人ひとりの心と体を守る最強の盾となります。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談されたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご連絡ください。また、担当者が個別でお悩みの場合もあるようですが、安心してお気軽に。
本日も最後までブログをお読みいただき、ありがとうございます。日々患者さんと向き合っておられる医療現場の皆様に、心より敬意を表します。今日もお疲れ様です。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)

