読者の皆様、毎日現場で患者様と向き合い、地域医療を支えていただき本当にありがとうございます。
「くそったれ」「辞めてしまえ」――もし皆様の病院で、特定の患者様から3年以上にわたり、このような罵声を浴びせられ続けたらどうなるでしょうか。実は2025年9月、大阪市はある男性市民から2022年5月から2025年6月までの約3年間に、電話548回・面談93回、合計600回を超える対応を強いられていたことを公表しました。「くそったれ」「辞めてしまえ」といった罵声を浴びながら、担当部署への説明や謝罪を繰り返し求められ続けたといいます。市は同年4月、面談の強要や長時間電話の差し止めを求めて裁判所へ仮処分を申し立て、さらに9月15日に開会した市議会に損害賠償請求(対応にあたった職員の給与相当額、約40万円)のための議案を提出し、可決され次第、提訴に踏み切る方針を固めました。発端は、市営プールの設備不具合や施設の汚れに関する、ごくありふれた苦情だったといいます(関西テレビ「カンテレNEWS」2025年9月15日配信ほか各社報道による)。
このニュースを耳にしたとき、医療現場の危機管理をサポートしている私は強い既視感を覚えました。なぜなら、医療現場におけるカスタマーハラスメント(カスハラ)、いわゆる「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」でも、これと全く同じ構図で現場のスタッフが疲弊し、心を壊していくケースが後を絶たないからです。
本ブログでは、元警察署長としての経験と視点から、「なぜこのような異常なカスハラが長期間放置されてしまうのか」、そして「医療機関の経営層は、どのタイミングでどのような意思表示と法的手段をとるべきなのか」について、具体的な解決策を分かりやすく解説します。このブログを読むことで、現場で苦しむ職員を守り、組織としての毅然とした防波堤を築くための仕組みづくりが見えてくるはずです。
3年・548回の異常事態。なぜ「事件」として迅速に扱われなかったのか?
記録に残るだけで電話対応548回、面談93回。この凄まじい数字を見たとき、私の頭に真っ先に浮かんだのは「その3年間、組織の幹部や当事者の職員は何をしていたのだろうか」という強い疑問と、「なぜ、もっと早い段階で警察に相談するなり、法的措置をとるなりして止められなかったのか」という歯がゆさでした。
おそらく現場の担当者は一生懸命に、そして誠実に対応しようとしていたはずです。公的機関であれ医療機関であれ、クレームの初期段階では「自分たちの説明が足りないのではないか」「誠意を尽くせばわかってもらえるはずだ」と考えがちです。しかし、相手の要求がエスカレートし、「説明と謝罪の強要」へと変質した時点で、これは通常の苦情対応ではなく「業務妨害」という明確な違法行為への入り口に立っています。
罵声を浴びせる行為は「侮辱罪」に該当し得ますし、内容によっては「名誉毀損罪」や「脅迫罪」にも触れる明確な違法行為です。それにもかかわらず、解決までに3年もの歳月を要してしまった背景には、いくつかの複合的な要因が絡み合っていると考えられます。
まず、「公務員や医療従事者はサービスを提供する弱い立場であり、相手に対して毅然とした態度をとってはいけない」という根強い思い込みです。次に、特定の担当者が矢面に立って苦労しているにもかかわらず、それを「組織全体の問題」として捉えきれず、結果的に個人の対応に丸投げしてしまった組織の構造的な問題が挙げられます。
さらに、「今は耐えて穏便に対応し続けていれば、いつかは相手もそのままフェードアウトしてくれるだろう」という、問題の先送りと淡い期待があったのではないでしょうか。そこには、何が正当な要求であり何が不当な要求なのか、「是は是、非は非」と明確に線引きをする確固たる判断基準と決断力が、組織として決定的に欠如していたと指摘せざるを得ません。
わずか十数回の電話で逮捕へ。元警察署長が語る「事件化」の分かれ道
私は警察官現職時代、刑事部門に長く所属し、区役所や学校、そして医療機関からの理不尽なクレームや粗暴な言動に関する相談を数多く受けてきました。統計的にもかなりの件数を扱ってきたという実感があります。
こうした外部機関からの相談の中には、私が被害者側を粘り強く説得して事件化できたケースもありました。しかし一方で、「警察沙汰にするような問題ではない」と被害者側の上司が及び腰になり、結果的に違法行為を放置せざるを得なかったケースも数多く経験してきました。
こうした「事なかれ主義」による歯がゆい経験とは対照的に、私が警察内部の当事者として直面し、即座に逮捕へ踏み切った事案があります。
それは私が刑事課長として捜査指揮を執っていた時のことでした。部下が30分以上にわたり、同じような当たり前の説明を延々と繰り返していることに違和感を覚え、報告を求めました。電話の相手は、自身が捜査対象となるような疑わしい行為をしているにもかかわらず、「警察の人権侵害だ」「責任を取ってもらう」と、身勝手な主張で激しく抗議を繰り返していたのです。
私はその内容を聞き、「このような利己的な主張を押し通そうとする人物は、おそらく日常生活の範囲内で関わる他の人々に対しても、同様の理不尽な振る舞いをしているに違いない」という総合的な見立てを行いました。「これは決して看過できない悪質さだ」と即座に判断したのです。
そこで私は、電話対応をしていた部下の上司(私にとっては部下にあたる幹部)に対し、「これ以上説明することはない。これ以上電話を繰り返すなら業務妨害にあたる、と一度明確に警告した上で電話を切りなさい」と指示を出しました。
組織として明確な警告を発したにもかかわらず、その後も相手は何度でも執拗に電話をかけ続けてきました。しかし、警告後の着信回数はわずか「十数回」でした。
それでも、逮捕に踏み切るにはこの事実だけで十分でした。業務(逮捕事実は電話交換業務を妨害した)を不当に拘束し妨害したとして、業務妨害罪で逮捕に踏み切ったのです。最終的には起訴有罪となり、理不尽な要求に対して組織として毅然と「逮捕」という実力行使に出たことの意義は極めて大きいものでした。
十数回の通話でも逮捕に至るというこの経験を踏まえて、「548回」という数字を見るとどうでしょうか。その中にいくら合理的な問い合わせが含まれていたとしても、通常の感覚からすれば、とうの昔に十分に事件化できる水準に達していたと私は感じざるを得ません。
私が事件化の判断基準として用いてきたのは、単に「行為の程度が社会通念から著しく逸脱しているか」だけではありません。立ち振る舞い、理屈の持っていき方、要求内容の理不尽さなどを総合的に見て、刑罰法令に照らして立件すべきかを判断します。医療機関のカスハラにおいても、この「総合的な悪質性の判断」こそが、警察の介入を要請する重要なバロメーターとなります。
「患者様第一」という呪縛。公共性と職員保護は別次元の話である
行政機関であれば「公務員は全体の奉仕者である」という憲法上の理念があり、医療機関であれば「応召義務(医師法第19条)」や「患者第一」という強い使命感があります。だからこそ、批判や抵抗、さらには理不尽な要求があっても、協力的かつ献身的にサービスを提供し続けなければならないと思い込んでいる現場のスタッフは非常に多く存在します。
しかし、ここで絶対に見落としてはならない重要な視点があります。それは「全体の奉仕者」や「地域医療への貢献」という理念そのものが、実は今回のような悪質なカスハラ事案に対して毅然と対応すべき「最大の根拠」になっているということです。
特定のクレーマーからの548回の電話に対応するということは、本来であれば他の多くの患者を救うために使われるべき貴重な医療資源(スタッフの時間と労力)を、一人の人物が独占的に奪っている状態を意味します。一部の者の際限ない要求に応じ続けることは、結果として他の善良な患者への医療提供体制を損なう行為なのです。
「医療従事者だから我慢し続けなければならない」というのは理念の完全な読み違えです。「多くの患者の命と健康を守る医療機関だからこそ、一部の悪質な要求には早期に厳格な線を引かなければならない」というのが本来の正しい筋道です。
さらに、組織としての公共性や使命感を重んじるあまり、目の前で精神的な被害を受け続けている一人の職員の「人権」や「働く環境の安全」が後回しにされてよいはずがありません。ひとたび違法行為に及んだのであれば、相手が患者であろうと一般市民であろうと、法のルールに基づいて厳正に対応するのは日本国民共通の原則です。患者対応だから穏便に済ませるということと、違法行為に対して警察と連携し法的な線を引くということは、全く次元の異なる話なのです。
👉患者からの不当な要求に対して「応召義務」を理由に対応をためらってしまうケースは少なくありません。一見すると合法的な理屈を並べ、最終的には裁判まで起こすような理不尽な患者に対し、医療機関がいかに理論武装して毅然と対抗すべきかについては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
『【応召義務の境界線】訴訟を起こした患者の診療は拒否できるの?元警察署長が教える医療現場の適切な対応』
(https://shibaken-poli.com/2026/09/11/%e3%80%90%e5%bf%9c%e5%8f%ac%e7%be%a9%e5%8b%99%e3%81%ae%e5%a2%83%e7%95%8c%e7%b7%9a%e3%80%91%e8%a8%b4%e8%a8%9f%e3%82%92%e8%b5%b7%e3%81%93%e3%81%97%e3%81%9f%e6%82%a3%e8%80%85%e3%81%ae%e8%a8%ba%e7%99%82/)
警察視点で読み解く、カスハラ・ペイハラに踏み込みにくい理由と今後の変化
一方で、過去に医療機関の方から「警察に相談したけれど、民事不介入だと言われてあまり動いてくれなかった」というお悩みを伺うこともあります。警察の側にも、こうした事案への対応に課題があることは事実です。
暴行で怪我をさせた、ナイフを突きつけて脅したといった定型的な事案であれば、検挙のラインは明確です。しかし、長時間の居座りや電話の連続といった「業務妨害」や、待合室での大声での暴言といった「軽犯罪法違反」「名誉毀損」「侮辱罪」については、被害者の困り具合と加害者の悪質さを個別に評価し、過去の判例にまで立ち返って判断しなければならないため、一部の現場警察官が及び腰になってしまう悲しい現実があるのも事実です。
しかし、状況は国を挙げて大きく変わりつつあります。法的根拠として見逃せないのが、厚生労働省が進めているカスハラ対策の強化です。労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法)の改正などが議論され、事業主にカスタマーハラスメント対策を講じることが公的な義務として課される流れが決定的となっています。
厚生労働省のガイドラインでも、顧客(患者)等からの著しい迷惑行為に対して、従業員(医療スタッフ)の心身の健康を守るための「安全配慮義務」が雇用主にはあると明言されています。これほど多くの人々が業務妨害的な迷惑行為に苦しんでいるからこそ、法律や指針が整備されつつあるのです。この「立法事実」を踏まえれば、警察もこうした事案の悪質性を積極的に評価し、より早期に事件化に踏み込むべき時期に来ていると私は強く感じています。
医療現場を守る極意。最初の「組織としての意思表示」がすべてを決める
では、医療機関は具体的にどう動くべきでしょうか。私が最も申し上げたい解決策の極意は「明確な意思表示」の重要性です。
私自身の刑事課長時代の事案でも、事態を動かしたのは「これ以上電話を繰り返すなら業務妨害にあたる」と明確に警告した瞬間でした。医療現場のペイハラ対策においても、どこかの段階で個人の対応から組織の対応へと切り替え、「当院としては、これ以上のお電話や要求にはお応えできません」と、組織として明確に意思表示をすることが、最も重要な一手になります。私は、「困ってます」「そのような言動は不本意です」と全て受け入れて容認しているわけではないとの意思表示が重要なのです。
大阪市の事案では、裁判所を通じた仮処分の申立てという「最終的な意思表示」に至るまでに3年もの歳月を要してしまいました。もっと早い段階で組織として明確な線を引いていれば、職員が受けた3年分の精神的苦痛は確実に防げたはずです。
医療機関においても、クレームが一定のライン(大声、暴言、長時間の拘束、理判不尽な要求の繰り返しなど)を超えたら、直ちに以下のアクションを起こす仕組みづくりが必要です。
・ 出口戦略を見据えた組織的方針の確立
- 客観的な記録の保存(録音、時系列のメモ、防犯カメラの映像保存)
- 現場の担当者から上司・病院幹部への迅速な報告ルートの確立
- 組織の代表者(院長や事務長など)名義での「要求拒否」の意思表示
- それでも止まない場合の、警察や顧問弁護士・専門家への速やかな相談
現場の看護師や受付スタッフに「自分でなんとかしなさい」と丸投げすることは、経営層の安全配慮義務違反に問われかねない重大なリスクであることを認識する必要があります。
飯塚市の条例に学ぶ、組織としての防波堤づくり
同じような問題意識に立つ先進的な制度として、福岡県飯塚市の「飯塚市不当要求行為等対策条例」があります。
この条例の素晴らしい特徴は、職員がまず記録・報告を行い、庁内幹部による対策委員会が対応方針を協議し、必要に応じて外部有識者の審議会が客観的にチェックするという「複数段階の意思決定プロセス」をあらかじめ制度化している点にあります。属人的な判断ではなく、組織全体で対応する仕組みが法律(条例)レベルで構築されているのです。
医療機関においても、この考え方は大いに応用できます。大阪市のように最終的に司法の場(仮処分や損害賠償)に持ち込む実力行使も一つの手段ですが、飯塚市のように事前に「組織内の判断プロセスとマニュアル」を整えておく予防型の仕組みづくりが不可欠です。
そして私はここに、公共性や「患者だから」という理由で遠慮することなく、「警察との連携」という第三の軸を、極めて早い段階から組み込むべきだと提唱しています。自分で事実と証拠を特定するという気構えさえ必要だと思います(そのためにはシバケンなど専門家に早期の相談を)失われた職員の心身の健康や、破壊された職場環境の安全・安心は、後からどれだけ損害賠償を請求しても二度と取り戻すことはできないからです。
終わりに:現場で懸命に努力している医療従事者が報われる社会へ
かつて学校現場を悩ませた「モンスターペアレント」も、今、医療の現場を悩ませる「ペイシェントハラスメント(カスハラ)」も、本質は全く同じ現象です。
時代や業種が変わっても、組織が「患者対応だから」「地域医療の使命があるから」と踏み込みをためらう間に、目の前の一人の懸命な担当者がサンドバッグのように犠牲になり続ける構図は変えなければなりません。組織としての明確な意思表示、客観的な記録、そして必要な段階での警察・弁護士への相談。この三つを早期から連動させる体制づくりこそ、今回の大阪市の事案が私たちに教えてくれている最大の教訓です。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。人のため、社会のため、まっすぐな気持ちで一生懸命頑張っている医療スタッフの方々が、理不尽なハラスメントによって心や体を壊してしまうことは、社会全体にとっての計り知れない損失です。現場で懸命に努力している人が、正当に報われる社会であってほしいと心から願っています。
もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、担当者が個別でお悩みの場合もあるようですが、安心してお気軽に声をかけていただければと思います。善と悪との構図で言えば、必ず善が勝つのだという意識のもと、皆様が安心して働ける環境を一緒に守り抜いていきましょう。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)

