はじめに:現場の「なんとなく我慢」がはらむ大きなリスク
「もう医学的には入院を続ける理由がないのに、本人が『退院しない』の一点張りで困っている」。 医療現場の皆様から、このようなお悩みを時々耳にします。大きな騒ぎになっていないからと、現場がなんとなく我慢して回している状態こそ、実は最も要注意です。本当に深刻化してから私のところにご相談をいただくケースでは、すでに大きなトラブルや訴訟にまで発展していることが少なくないからです。
労働施策総合推進法の枠組みにおいて、こうした迷惑行為は「カスタマーハラスメント(カスハラ)」と呼ばれます。医療機関における患者さんやご家族からのカスハラは、厚生労働省によって「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」と整理されていますが、本ブログでは一般的な認知度が高い「カスハラ」という言葉も交えながら、根本的な解決策をお伝えします。
本ブログを読むことで、現場が悩みを持った際の「退院」や「転院」という手段が、法的にしっかりと裏付けられた正当な対応であることをご理解いただけます。厚生労働省の通知や実際の裁判例をもとに、現場の皆様が安心・安全に働ける環境づくりのための具体的な道筋をご説明いたします。
なぜ医療現場は毅然とした対応をためらってしまうのか
応召義務へのプレッシャーと現場のジレンマ
多くの医療機関が毅然とした対応に足踏みしてしまう背景には、医師法19条1項の「応召義務」の存在があります。この原則の重さゆえに、「患者の希望には最大限応えなければならない」という本来の趣旨を超えた誤解が現場に広がっています。応召義務とは「正当な理由なく診療を拒んではならない」という規範であり、「患者の要求をすべて受け入れなければならない」というものではありません。
また、迷惑行為を繰り返す患者さんほど、退院や転院を切り出した瞬間に強い反発を示す傾向があります。その結果、判断基準が「相手がどれだけ怒るか」にすり替わってしまい、公的な指針を知らないまま現場が対応に苦慮するケースが後を絶ちません。
日々の現場において、24時間体制で一方的な主張を受け止めているのは看護師などの現場スタッフです。一方で、退院や転院といった職場環境の安全に関わる決断を下すのは、医師や院長といった立場の方々です。実際に矢面に立つ人と判断を下す人の立場がずれていることが、決断が後手に回ってしまう大きな要因となっています。
厚生労働省が示す「退院」と「転院」の明確な基準
令和元年12月の厚労省通知が意味するもの
令和元年12月25日、厚生労働省医政局長より「応招義務をはじめとした診察治療の求めに対する適切な対応の在り方等について」という重要な通知(医政発1225第4号)が出されました。この通知では、診療を拒否しても正当化される場合が明確に整理されています。
退院については、「医学的に入院の継続が必要ない場合には、通院治療等で対応すれば足りるため、退院させることは正当化される」と明記されており、判断基準は本人の意向ではなく、あくまで医学的な必要性の有無です。
一方、転院については、「地域全体で患者ごとに適正な医療を提供する観点から、病状に応じて高度な医療機関から地域の医療機関を紹介し、転院を依頼・実施すること等も原則として正当化される」とされています。また、迷惑行為については、「診療・療養等において生じた迷惑行為の態様に照らし、診療の基礎となる信頼関係が喪失している場合には、新たな診療を行わないことが正当化される」と整理されています。実務においては、これら三つの考え方を組み合わせて理解しておくことが極めて重要です。
👉 応召義務の解釈や、訴訟などトラブルに発展した患者さんに対する「診療拒否」の可否については、以下の過去記事でも実際の事例を交えて詳しく解説しています。本記事とあわせてぜひご一読ください。 『【応召義務の境界線】訴訟を起こした患者の診療は拒否できるの?元警察署長が教える医療現場の適切な対応』 (https://shibaken-poli.com/2026/09/11/%e3%80%90%e5%bf%9c%e5%8f%ac%e7%be%a9%e5%8b%99%e3%81%ae%e5%a2%83%e7%95%8c%e7%b7%9a%e3%80%91%e8%a8%b4%e8%a8%9f%e3%82%92%e8%b5%b7%e3%81%93%e3%81%97%e3%81%9f%e6%82%a3%e8%80%85%e3%81%ae%e8%a8%ba%e7%99%82/)
裁判所も支持する「退院」の判断:名古屋高裁の事例
実際の裁判例を見ても、医療機関側の毅然とした対応は法的に支持されています。急性心筋梗塞で入院した男性患者が、5年以上にわたって退院を拒み続けた事案(名古屋高等裁判所 平成20年12月2日判決)があります。
この患者さんは、大声で怒鳴る、無断外出、禁煙区域での喫煙、病院敷地内への自家用車の持ち込み、病院を非難する街宣車を呼ぶなどの迷惑行為を繰り返しました。これに対し裁判所は、医師が通院可能な程度まで回復したと診断し退院を勧告した場合、患者は速やかに病室から退去する義務を負うと判断し、病院側の請求を認めました。
この事案が示すのは、医学的な回復という客観的な根拠があれば、退院を求める対応は法的に守られるということです。実務上大切なのは、迷惑行為の態様と医師による退院勧告の経緯を、日時や具体的な内容とともに記録として積み重ねておくこと。そして、必要に応じて仮処分といった法的手続きを早い段階で検討することです。院内だけで抱え込まず、外部へ早めに相談することが、結果として現場の負担を軽くします。
医療上の義務と「転院」における総合的判断の極めて高い難易度
医療上の措置としての転医義務(最高裁判所 平成7年6月9日判決)
ここで、医療機関のガバナンスとリスク管理の観点から最も深く掘り下げて考えなければならないのが「転院」の扱いです。転院は単なる患者の移動ではなく、重大な法的責任を伴う医療上の措置です。
最高裁判所第二小法廷は平成7年6月9日、未熟児網膜症に関する裁判において、この転院に関する「転医義務」について極めて重要な判断を下しました。事案は、病院に入院していた未熟児が、光凝固法という適切な治療を受けられず、結果として視力が低下してしまったというものです。
最高裁はこの判決のなかで、新しい治療法についての知見が同じような性格の医療機関にある程度広まっていれば、それはその医療機関にとっての「医療水準」にあたると明確に示しました。そのうえで、予算上の制約などで必要な技術や設備を自院で備えていない場合には、それを備えた他の医療機関に速やかに転院させる義務(転医義務)があると明言したのです。医師が適切な治療を行わず、かつ実施可能な他の医療機関に転院させるなどの措置も怠って患者に損害を与えた場合は、診療契約に基づく債務不履行責任を負うことになります。
つまり、転院とは「迷惑な患者に対する単なる対抗手段」ではなく、「患者に最適な医療を提供するための医療上の責任義務」であるということです。転院させるべき時に先延ばしにし、漫然と自院での治療を続けてしまえば、それはダイレクトに法律問題となり、深刻な医療紛争へと発展するリスクを孕んでいるのです。
厚労省通知から読み解く「転院」における患者の主観と承諾の壁
この最高裁が示した「医療上の義務としての転院」という厳格なベースがある一方で、現実の転院対応を極めて難しくしているのが、先述した厚労省通知の文言のニュアンスです。
通知文には、医療機関を紹介し、転院を依頼・実施すること等も「原則として正当化される」と記されています。この「原則として」という一言には、非常に重い意味が込められています。それは、転院という行為が本来、患者側の承諾、希望、主観、要望といった意向に大きく左右される性質のものであるという前提です。退院が「もう医学的な治療の必要がない」という客観的事実だけで押し切れるのに対し、転院は「まだ医学的な治療が必要である」という状況が前提となるため、行き先を含めて患者本人の理解と納得、すなわち主観的な承諾がどうしても絡んできます。
医療上の必要性と迷惑行為を天秤にかける「総合的判断」の重み
ここからが、カスハラ対応における最大の難所となります。
病院側の治療方針に不満を持ち、理不尽な要求や迷惑行為を繰り返す患者がいるとします。自院の設備や専門性、あるいは信頼関係の完全な崩壊という観点から見れば、最高裁判例に照らしても「他院へ転院させるべき(転医義務が生じている)状況」です。しかし、当の患者本人は自らの要望や主観に固執し、転院を断固として承諾しません。
この時、現場は深刻なジレンマに陥ります。「迷惑行為があるから出て行ってほしい」という病院側の安全配慮義務の側面と、「転院に承諾しない患者を、治療が必要な状態でどう扱うか」という医療上の義務の側面が激しく衝突するのです。
このような承諾が得られない場合の措置については、単純に「厚労省通知があるから強制的に転院させられる」と短絡的に考えることはできません。現場の医師や経営層は、現在の「医療上の必要性(病状の切迫度や転院先での治療の確実性)」と、現場で起きている「迷惑行為の深刻度・頻度・スタッフへの被害状況」とを両天秤にかけ、極めて高度で緻密な「総合的判断」を下さなければならないのです。
転院の判断においては、退院の時とは比較にならないほど、検討し、裏付けを取らなければならない事項が増加します。だからこそ、現場の感覚や我慢だけで乗り切ろうとするのは不可能であり、組織全体で客観的な事実を積み上げる仕組みが絶対に必要となるのです。
病院間の連携を止めないための具体的な仕組みづくり
特定の職員の時間が何度も長く拘束されるような、カスハラに発展しかねない段階での転院においては、転院元の病院が把握した「患者さんがどのような要望を、どのような形で、どれくらいの頻度で伝えてきたか」という経過を、次の病院へ引き継ぐことが非常に重要です。
これが引き継がれなければ、転院先の職員も同じ摩擦を一からやり直すことになり、地域全体の転院機能が滞る原因になります。具体的な仕組みづくりとしては以下の取り組みが必要です。
- 「同じ説明を繰り返しても納得が得られない」などの兆候が一定期間続いた時点で、日時・内容・対応職員・要した時間を記録に残すルールを定めること。
- この記録を診療情報提供書とは別に、転院先へ申し送る仕組みを持つこと。
- 医療安全部門やリスクマネージャーが窓口となり、情報を一元的に集約すること。
さらに見落とされがちなのが、医療機関のプライバシーポリシー(個人情報保護方針)です。対応経過や職場環境の安全に関わる情報の第三者提供について、あらかじめ項目に落とし込んでおくことが、いざという時の円滑な連携を支える土台となります。
いよいよ来月に迫った「待ったなし」の対応義務
これまでは「決断の後手」が現場の頑張りで済まされてきた面がありましたが、状況はすでに待ったなしのところまで来ています。来月、2026年10月1日より改正労働施策総合推進法が施行され、医療機関を含む事業主にカスタマーハラスメント対策が義務付けられます。
具体的には、迷惑行為に対して毅然とした態度で労働者を守る方針を明確にして周知すること、専任の相談窓口を整えること、事実関係を迅速かつ正確に確認したうえで被害を受けた職員への配慮と再発防止に取り組むことなど、5つの雇用管理上の措置が求められます。
これらの義務を怠れば、行政からの指導や公表の対象にもなり得ます。「もう少し我慢してもらってから」という先送りは、今後は組織としての法令違反リスクに直結します。
退院させるべき時は速やかに退院させる。そして転院させるべき時は、医療上の責任と迷惑行為の状況を総合的に判断したうえで、速やかに転院させる。特に一方的な主張が積み重なった場面では、なおさら速やかな決断と実行が求められます。感覚や我慢で乗り切るのではなく、法的な裏付けのある根拠を踏まえて決断し、実行する。それが、これから医療機関に求められる姿勢です。
終わりに
厚労省の通知が示す「退院」「転院」の考え方、そして最高裁が示した転医義務の重みは、単なる迷惑行為への対抗策という枠を超え、医療現場の職場環境を安全に保ち、結果として患者さん一人ひとりに寄り添った医療を届けるための重要な土台となります。
「応召義務があるから何もできない」という思い込みを手放し、転院においては患者の主観や要望も絡む複雑な状況下で、医学的な必要性と迷惑行為の状況を総合的に判断するという基準に立ち返ること。その覚悟を持つことで、現場の迷いや負担は大きく軽減されるはずです。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、担当者が個別でお悩みの場合もあるようですが、安心してお気軽に。
日々患者さんと真摯に向き合っていらっしゃる医療現場の皆さまに、心より敬意を表します。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)

