日々、患者さんの命と健康に真っ直ぐに向き合っていらっしゃる医療従事者の皆様、本当にお疲れ様です。
先日、私がご依頼を受けたある病院での相談対応の場で、現場のスタッフの方からこのような切実なご質問をいただきました。「院長が不在の時に、ハラスメント患者が来院した場合、私たちは現場でどう対応すればいいのでしょうか」。非常にシンプルで真っ直ぐな問いですが、この言葉の裏には、医療機関におけるハラスメント対策の根幹に関わる、非常に重く現実的な課題が隠されています。
本ブログでは、この「院長不在時の対応」という現場のリアルな悩みを起点として、医療機関が組織として何をどう整えておくべきか、その具体的な解決策と仕組みづくりについて詳しく解説していきます。このブログを読むことで、いざという時に現場が迷わず初動を取れるための「危機管理の極意」をご理解いただけるはずです。
医療現場におけるカスハラ(ペイハラ)特有の過酷な現実
私が日頃から医療機関へ足を運び、多くのご相談を受ける中で強く感じているのは、医療機関で発生するハラスメントは、他業種のそれとは性質や緊迫度が大きく異なるということです。
世間一般では、顧客からの著しい迷惑行為をカスタマーハラスメント(カスハラ)と呼びますが、医療現場においては、患者さんやそのご家族からの迷惑行為をペイシェントハラスメント(ペイハラ)と呼んで区別することが増えています。厚生労働省などの公式な見解でもペイシェントハラスメントという言葉が使われますが、医療機関におけるカスハラ問題として社会的な関心も高まっていることから、ここからは医療現場の特殊性を踏まえながら、その過酷な現実を深掘りしていきます。
時間の流れが全く異なる「医療ミス」と「カスハラ」
組織のトップである院長が不在のときに問題が起きた場合、どのように対処すべきか。これを考えるうえで、まずは事案による「時間の流れ方」の決定的な違いを理解しておく必要があります。
例えば、医療過誤やシステムトラブルなどが起きた場合、通常は時間をかけて対応プロセスを進めることができます。現場から所属長へ報告が上がり、最終的に組織のトップである院長まで情報が伝達されます。そこで事案の内容把握、問題点の整理、相手方の要望の確認、今後の組織としての対応方針などが慎重に検討され、最終的に院長が判断を下すというプロセスをたどります。これは、事後対応として確実にステップを踏むことができる事案です。
しかし、現場で突然発生する悪質なクレームや暴言、すなわちカスハラ(ペイハラ)は全く違います。かねてから問題行動のあった患者さんが来院し、今まさに受付で大声を出して威圧している。あるいは、診察室で医師や看護師に対して、新たなハラスメント行為に及んでいる。このような場面では、「その場でどう判断し、どう動くか」という即断即決が問われます。悠長に会議を開いている時間など1秒もないのです。
現場に求められる「一次判断」の重圧と混乱
大きな病院になればなるほど、どの部門の、どのタイミングで、どのようなハラスメントが起こるかを事前に予測することは極めて困難です。
目の前で怒鳴り声を上げ、他の患者さんにも恐怖を与えている人がいるのに、担当者が「相談窓口の責任者に報告し、さらに責任者が院長に電話をして指示を仰いでから対応します」というプロセスを踏んでいては、現場の混乱は大きくなるばかりです。最悪の場合、スタッフの心身の安全が脅かされたり、他の患者さんの診療に重大な悪影響を及ぼしたりする危険性すらあります。
このように、時間的な猶予が全くない事案においては、第一次的な判断は、現場の相談対応責任者がその場で下さざるを得ない場面が必ず出てきます。この「一次判断」を現場が自信を持って行える環境を作ることこそが、現在の医療機関に求められている最大の課題と言えます。
法律と指針が明示する医療機関の「体制整備」義務
こうした現場の切実な状況に対し、国も明確なルール作りを進めています。現場のスタッフの個人的な我慢や自己犠牲に頼るのではなく、組織としての対応が法律によって強く求められる時代になりました。
新たな指針が事業主に求める厳しい責務
厚生労働省は2026年2月26日、「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(令和8年厚生労働省告示第51号)を告示しました。
これは、労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法などを定めた法律)の改正に基づく指針であり、2026年10月1日から施行されるものです。この指針において最も注目すべき点は、ハラスメント対策が、ついに事業主の「法的な義務」として明確に位置づけられたことです。
指針では、保護の対象となる加害者を「顧客、取引の相手方、施設の利用者その他の当該事業に関係を有する者」と広く定義しています。さらに重要なのは、施設利用者の具体例として「病院」が名指しで明記されている事実です。つまり、患者さんやそのご家族からの理不尽な迷惑行為に対応し、働くスタッフを守ることは、道義的な責任にとどまらず、法律上も明確な医療機関の事業主としての責務となったのです。
スタッフを守る「安全配慮義務」と法的リスク
医療機関には、労働契約法第5条に基づく「安全配慮義務」があります。これは、労働者がその生命や身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、使用者が必要な配慮をしなければならないという法律上の義務です。
もし、悪質な迷惑行為を放置し、現場のスタッフが精神的な疾患を患ったり、退職に追い込まれたりした場合、病院側が安全配慮義務違反に問われるリスクがあります。過去の様々な労働判例を見ても、顧客からの度重なる暴言や脅迫行為を組織として把握していながら、適切な防御策やスタッフへの配慮を講じなかったケースにおいて、事業主に対する多額の損害賠償が命じられた事例が存在します。
病院を守るため、そして何より大切なスタッフを守るためには、「患者さん第一」という従来の医療のあり方と、「スタッフの安全第一」という労働環境の保護を両立させる仕組みづくりが急務なのです。
👉 これまで「患者さんに寄り添うこと」を第一に教育されてきた現場が、いざという時に指針が求める毅然とした対応をとるための具体的な考え方や断り方については、以下の記事でも詳しく解説しています。
『【応召義務の呪縛を解く】病院スタッフを疲弊させる不当要求への正しい断り方と組織づくり』
(https://shibaken-poli.com/2026/09/18/%e3%80%90%e5%bf%9c%e5%8f%ac%e7%be%a9%e5%8b%99%e3%81%ae%e5%91%aa%e7%b8%9b%e3%82%92%e8%a7%a3%e3%81%8f%e3%80%91%e7%97%85%e9%99%a2%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%83%e3%83%95%e3%82%92%e7%96%b2%e5%bc%8a%e3%81%95/)
指針が求める5つの措置と「相談体制の整備」
では、具体的に何をすべきなのでしょうか。厚労省の指針が事業主に求める雇用管理上の措置は、大きく以下の五つに分類されます。
第一に、組織としての対応方針の明確化と、現場への周知啓発。 第二に、適切に対応するための相談体制の整備。 第三に、事案発生後の迅速な事実確認、被害者への配慮、および再発防止策の徹底。 第四に、警察への通報や施設利用の制限を含む、毅然とした抑止措置の実施。 第五に、プライバシーの保護と、相談したことによる不利益取扱いの禁止。
冒頭でご紹介した「院長不在時にどうするか」という現場の質問は、このうちの二番目、相談体制の整備の核心を突くものです。
セクシュアルハラスメントやパワーハラスメントと同様に、担当者をあらかじめ定め、相談窓口を設け、関係部門と連携できる仕組みを作ることがガイドラインで示されています。しかし、時間的猶予のないペイハラの場合、この相談窓口の責任者が果たす役割や決断の重さは、他のハラスメント類型とは比べ物にならないほど大きくなると私は考えています。
危機管理の極意「バトンゾーン」という発想
院長が不在のときに起きる突発的な危機。この難局を乗り切るための考え方として、私は「バトンゾーン」という概念を提唱しています。これは、私が警察で長年、危機管理の実務に最前線で携わってきた経験から得た、組織を機能させるための極意でもあります。
権限というバトンを一時的に渡す仕組み
陸上競技のリレーを思い浮かべてみてください。リレーにおいて最も重要で、最も技術が問われるのがバトンパスです。
私は、院長が不在の時間を、このバトンゾーンに重ねて考えています。院長という第一の走者が不在の区間では、次走者である相談窓口責任者(あるいは現場の責任者)が、「状況判断の権限」というバトンを一時的に持って走らなければなりません。トップがいないからといって立ち止まること、つまり対応を保留して被害を拡大させることは絶対に許されないのです。
警察の現場でも全く同じです。大きな事件や事故が発生した際、必ずしも署長や本部長がその場にいるわけではありません。そのような時は、現場に駆けつけた初動指揮官が、一時的にすべての権限と責任を背負って初動対応に当たります。これが機能しなければ、被害は拡大し、取り返しのつかない事態を招きます。
機能するバトンパスは「日々の練習」から生まれる
リレー競技において、猛スピードで走りながらバトンの受け渡しがスムーズにできるのはなぜでしょうか。それは、日頃から二人の走者が繰り返し、何度も何度も練習をしているからです。
医療現場の対策における相談体制の整備の実質も、全く同じだと私は考えています。単に壁に「ハラスメント相談窓口はこちら」というポスターを掲示したり、分厚いマニュアルのファイルを棚に置いたりすることではありません。
院長と相談窓口責任者が、日常的に緊密な情報共有を行い、「もしこういう傾向の患者さんが休日に来て暴れたら、こう判断してほしい」「このレベルの暴言が出たら、私の許可を待たずに迷わず警察に通報して構わない」という共通認識を、時間をかけてすり合わせておくこと。この日々の意思疎通の積み重ねという「練習」があって初めて、院長不在時にも責任者が自信を持って暫定的な判断を下し、事後に速やかに院長へ報告・共有するという一連の流れが機能するのです。
相談窓口責任者に求められる役割と組織の支援
バトンを受け取る側である相談窓口責任者には、非常に重要な役割が期待されます。しかし、決してその人にすべての重荷を背負わせてはいけません。
窓口責任者の具体的な任務と自己研鑽
厚労省の指針が相談窓口の任務として挙げているのは、現場からの情報共有の取りまとめ、組織としての対応方針を確立するための起案、各種の予防対策の推進、事案発生時の第一次的判断、そして何より被害に遭ったスタッフの保護など、多岐にわたります。
これらを的確にこなすためには、窓口担当者自身の専門的な知識が不可欠です。また、常日頃からの院内の各部署との良好な人間関係の構築や、継続的な研修によるコミュニケーション能力・危機介入技術の向上が欠かせません。怒り狂う相手に対して、どのようにトーンダウンさせるか、あるいはどのタイミングで見切りをつけて毅然とした態度に出るか。これらは一朝一夕に身につくものではなく、継続的な自己研鑽が必要です。
組織全体で責任者を孤立させない仕組みづくり
同時に、組織として責任者を絶対に孤立させない仕組みづくりが絶対条件です。具体的には、対策マニュアルを現場の実態に即して整備し、「事前にどう対応するか」「事後にどう対応するか」「どの段階で警察を呼ぶか」といった判断基準を明文化しておくことが重要です。
また、相談窓口の担当者と、院内の対策担当委員(医師、看護部長、事務長など複数名で構成)が定期的に会合を持ち、院内全体の細かなトラブル情報を集約・分析しておくことも必要です。「最近、あの患者さんの言動が少しエスカレートしているようだ」という小さな兆候(ヒヤリハット)を事前に共有できていれば、いざという時の一次判断が格段に早くなります。
こうした組織的な取り組みこそが、法律や指針の求める「方針の明確化」と「実効性の確保」に繋がる課題の根本解決への道筋なのです。
研修の効果はじわじわと表れる!現場ファーストの意識改革
体制を整え、立派なマニュアルを作ったからといって、明日からすぐに完璧な対応ができるわけではありません。人材育成と組織風土の醸成には、どうしても時間が必要です。
繰り返すことで意識が変わる
私自身、ある病院様からのご依頼で、三年間で四回、ハラスメント対策の研修講話を担当させていただいています。正直に申し上げますと、一年ぶりに伺うと「あ、前回話した重要なポイントを忘れてしまっているな」と感じる場面は少なからずあります。人間の記憶は薄れるものですし、日々の過酷な業務に追われていれば当然のことです。
それでも、繰り返し研修を行い、教養と訓練を重ねていくことには絶大な意味があります。最初は戸惑っていたスタッフの方々も、回を重ねるごとに「情報共有のフォーマット」が統一されてきたり、悪質なクレームに対して「やりとりを録音して記録に残す」という行動が自然に取れるようになったりと、できることから少しずつ現場の実践に落とし込まれていく様子が、外から見ている私にもはっきりと伝わってきます。
そして何より素晴らしいのは、こうした地道な取り組みを続けることで、その病院での実際の被害相談件数が着実に減ってきているという事実です。
忙しい現場だからこそ「少しずつ」の前進を
法律や指針が、事業主に対して単なる制度設計だけでなく「継続的な研修・教養・訓練の実施」を求めているのは、まさにこの積み重ねによる効果を前提としているからに他なりません。
日々、目の前の患者さんの命や痛みに向き合う忙しさの中で、ハラスメント対策の訓練を常に最優先にすることは現実的ではないでしょう。それでも、「今回はマニュアルの読み合わせだけしよう」「今日は録音レコーダーの配置場所と起動方法だけ確認しよう」といった、できることから少しずつ進める意識の積み重ねが重要です。その小さな一歩が、組織全体としてはかけがえのない大きな前進、つまり「いざという時に揺るがない強靭な組織力」へと繋がっていくのだと私は確信しています。
独断は禁物!院長へ「連絡・判断を仰ぐべき」明確な境界線
ここまで、「院長不在時には相談窓口責任者が一次判断を下すための権限委譲(バトンパス)が必要だ」とお話ししてきました。しかし、これは決して「すべてを窓口責任者の独断に委ねてよい」という意味ではありません。ここを履き違えると、組織の統治(ガバナンス)が崩壊してしまいます。
院長の決断が必要な領域
医療現場において、現場の責任者だけで決して決めてはならない明確な境界線があります。例えば、患者さんの疾患の治療方針に関わるような「医療そのものに関する判断」や、スタッフの配置転換・休職などに直結する「職場環境や人事に関わる重大な判断」は、これまでと同様に、組織のトップである院長(またはしかるべき委員長など)に直接連絡を取り、指示を仰がなければならない場面です。
ハラスメント事案についても同じことが言えます。「この患者さんを今後一切、当院では受け入れない(診療の制限・拒否)」という極めて重い判断や、損害賠償を求めるような法的な対応に踏み切る判断は、一次対応の現場だけで決めるべきことではありません。
動きながら指示を仰ぐという危機管理の基本
では、緊急事態が発生し、現場でのケースバイケースの判断がどうしても必要になった際はどうすべきか。
答えは「まず現場の安全を確保するために動きながらも、同時にトップへ連絡を取り、判断を仰ぐ姿勢を常に持ち続けること」です。
例えば、相手が暴力を振るいそうな危険な状況であれば、院長の許可を待たずに「今すぐ警察を呼ぶ」という一次判断(行動)は現場の責任で行います。しかし、通報した直後には、必ず速やかに院長へ事態を報告し、「警察が到着次第、今後の対応を協議させてください」と指示を仰ぐ。
この「現場での迅速な行動」と「トップへの的確な報告・相談」の両立こそが、「院長不在時にどうするか」という問いに対する、最も現実的で効果的な答えになるのです。
まとめと組織防衛のための第一歩
本ブログでお伝えしたかったことは、ペイシェントハラスメント(カスハラ)への対応は、決して院長ひとりが重荷を背負うものでもなければ、相談窓口の担当者だけで完結するものでもないということです。
厚労省の指針が求める「相談体制の整備」の真の目的は、単に形式的な窓口を設けることではありません。日頃からトップと現場が緊密に情報共有を行い、「もしもの時」の役割分担のリレー練習を積み重ねておくこと。そして、いざという時に誰も迷うことなく、スタッフの安全を守るための初動を確実に取れる組織を作ることにあるのです。
病院という24時間365日稼働する場所において、院長が不在の瞬間は必ず訪れます。その無防備とも言える瞬間に、組織がしっかりと機能するかどうかは、今日からの地道な積み重ねにかかっています。まずは小さなことから、現場での話し合いを始めてみてください。
私は、元警察署長としての危機管理経験や、財務省・国税庁への出向経験を経て、現在は看護学校の講師や福岡市医師会の安全対策支援アドバイザーを務めております。これまで依頼に応じて市内の病院で数多くの相談対応や研修・講話を行ってまいりました。もし組織の安全管理やハラスメント対応などでお困りのことや、ご相談(ごあいだい)になりたいことがあれば、どうぞ遠慮なく柴田建一(シバケン)までご相談ください。また、担当者が個別でお悩みの場合もあるようですが、安心してお気軽に。
本日も最後までブログをお読みいただき、ありがとうございました。日々、患者さんと向き合いながら現場を支えていらっしゃる医療従事者の皆様に、心から敬意を表します。今日もお疲れ様です。
👉 公的エビデンス:厚生労働省の公式指針はこちら 組織として講ずべきハラスメント対策の公的な基準については、厚生労働省発出の以下の指針をご確認ください。 【厚生労働省】労働施策総合推進法に基づく「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号)」 (https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf)

